懐疑の心、トマスの心は私の心

ヨハネの福音書 20章

 
 24節 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、
      彼らといっしょにいなかった。
 25節 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。
       しかし、トマスは彼らに
      「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、
           また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
 26節 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。
      戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って
      「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 27節 それからトマスに言われた。
      「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
          手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 28節 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 29節 イエスは彼に言われた。
      「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 
イエス・キリストの”よみがえり”について、4つの福音書は各々の観点で記録しています。
全体的な流れとしては、イエス・キリストが十字架で死んで金曜日の夕方にアリマタヤのヨセフ議員の新しい墓に葬られ、マリヤを始め、女達はその墓に納められた埋葬の光景を良く見ていたというところでしょう。
マタイによると、ユダヤの祭司長達は、ピラトに願ってローマ兵を墓の番人に付けてくれる様に言い、ピラトはそうしたという事です。
ローマ兵は墓に大きな石を転がし、それにローマの刻印の封印をします。
金・・・土・・・何事もなく時間が過ぎていきました。
しかし、エルサレムに突然大きな地震が起きます。(マタイ28:2)
そして、墓には御使いが現われ、その光々しい姿に、ローマ兵は死人の様になったのです。(マタイ28:4)
ローマ兵は、気が付くとエルサレムの祭司長のところに行きました。
番兵は、賄賂をもらってピラトに適当な報告をします。
 
 マタイの福音書 28章
  2節 すると、大きな地震が起こった。
     それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、
     その上にすわったからである。
  4節 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
 
一方マリヤ達はイエス様の身体に油を塗る為、朝のまだ暗い内に墓に行きました。
けれども、そこには、いるはずのローマの番兵がおらず、墓も、大きな石が転がされていたのです。
彼女達は不思議に思い、墓の中を覗くと、中にはイエス様の死体がありませんでした。
彼女達のうちの何人かが、弟子達に、この出来事を知らせに行きます。
しかし、マグダラのマリヤだけは残っていて、御使い、そしてイエス・キリストと直接話しています。
が、マリヤは最初それをイエス様ではなく、園の管理人だと勘違いしました。
そして、マリヤが「マリヤ」というイエス様の声に気付いたその瞬間に、イエス様は消えてしまいます。
 
弟子達の方は、女性数人から墓の事を聞きましたが、全く信じませんでした。
しかし、ペテロとヨハネはイエス様の墓に走って行きます。(ヨハネ20:2~10)
そして、ついに日曜日の夕方、弟子達の前にキリストが現われます。(ヨハネ20:19~23)
 
ヨハネの福音書 20章
 19節 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。
     弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、
     イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。
     「平安があなたがたにあるように。」
 20節 こう言って、イエスは、その手とわき腹を彼らに示された。
     弟子たちは、主を見て喜んだ。
 21節 イエスはもう一度、彼らに言われた。
     「平安があなたがたにあるように。
           父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 22節 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
 「聖霊を受けなさい。
 23節 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、
            あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
 
また同様の時刻(午後3時~)に、ある二人の人(クレオパ)がエルサレムからエマオへ歩いて帰っていた事がルカ24:13~35に記されています。
エマオはエルサレムから11km程離れた村で(ルカ24:13)、現在、そのエマオ村を同定する事は出来ないそうです。
 
ルカの福音書 24章 13節
  ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れた
  エマオという村に行く途中であった。
 
キリストは、この二人の弟子の前にも現われました。
そして、夕食時にパンを裂かれた時、二人の目が開かれたのです。
二人はこの後、エルサレムにいる弟子達のところにこの事を報告に戻りました。
復活したイエス様は、今度はエルサレムの弟子達の前にその姿を見せます。
そこで、正真正銘、その人がイエス・キリストである事が分かりました。
ところが、双子(デドモ)と呼ばれるトマスのみ、7日間弟子達を離れて、どこかに行っていたのです。
デドモ・トマスにとって、10人の仲間の主の弟子達と、今更イエス様がいないのに会っても何もならないと思っていたのでしょうか。
しかし、イエス様の復活の噂を耳にしたのでしょう。(ヨハネ20:26) 
一週間後に、トマスは10人の弟子達と合流し、主イエスが復活したと弟子達から聞かされます。
ところが、トマスは20:25「私は絶対に信じない」と言いました。
 
十字架にかけられ、槍で脇腹を突き刺され、死体検死兵がちゃんと死んだと判定して埋葬した死体が生き返るはずがないと、普通誰でも思います。
トマス自身も、現場に居たので、25節の言葉を語っているのです。
自分の経験に合わないものは、なかなか信じられません。
他人の証言があっても、自分で見ない事には、何ともいえないと思うのが普通の人間の感覚です。
トマスの感覚は私達の中にもあるし、むしろ、容易く信じる方が危ないかもしれません。
事実、イエス・キリストの復活が信じられないという人は多いです。(中村智博先生著「聖書にバックドロップ」)
 
トマスという人は、懐疑主義者と言われていますが、信じられない、とまず疑うのは当然の事のように思えます。
ただ、少々トマスは極端なのかもしれません。
自分以外の数十人の人々の証言を全く信じていないのです。(20:25)
こんなに大勢の人が「キリストを見た」と言っているのに信じないのは、少々頑なのように思われます。
トマスという人は、むしろ、目で見て、手で感触を得ないと信じない体験主義者だったのかもしれません。
トマスは、全ての人の証言、証しを信じずに否定していたのですが、その日曜日の夕方、突然トマスのいるところにイエス様が現われました。
そして、トマスの言葉を、全て聞いていた事を直接言われます。(20:27)
トマスは、イエス・キリストの出現に圧倒され、しかも自分の言った言葉をそのまま答えとしてイエス様が語られた事に、言葉を失います。
そして、やっと口から出た言葉が「私の主、そして私の神」です。
 
20:29のイエス様の語られたみことばですが、イエス様の言葉には、諺になるようなみことばがあります。
この世の諺は「百聞は一見にしかず」見る事より確かな事はないというものです。
イエス様は、復活したという証言を聞いて、それを確かめようという姿勢よりも、その証言を素直に信じる人の方が幸いだと言われました。
目で見る事には限界があるからです。
出エジプト記がその例です。
主イエスの復活を見た、主の現われを見た、御声を聞いたという主の弟子、使徒となる弟子達の証言を聞いて信じる人は幸いなのです。
このみことばは、直接トマスに言われたものですが、原文はもっと一般的になっています。
このヨハネのメッセージは、トマスだけではなく、一般的な大原則であるという事です。
主イエスは本当に甦って今も生きておられるというキリストの弟子達の証言により、イエス様を見たいという心ではなく、その証言をそのまま真実として信じる事こそが大切だというのです。
トマスは、その後、全世界に行けという主イエスの大宣教命令に従い、弟子達の中で最も遠いインドにまで出て行き、キリストを伝えて殉教したと伝えられています。
 
私達の信仰の中心は、キリストの誕生でも、キリストの模範的な生涯でもなく、死に勝利したキリストの復活です。
そこにこそ、どんな苦しみにあっても希望をもてる原動力があるのです。
パウロは叫びます。
 
コリント人への手紙 第Ⅰ 15章
 16節 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
 17節 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
            あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
 18節 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
 19節 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、
            私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
 20節 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
 
ローマ人への手紙 8章
 34節 罪に定めようとするのはだれですか。
     死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
     神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
 35節 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
     患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、
           飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 36節 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
            私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 
 37節 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
      これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。