枯れた無花果の木

マルコの福音書 11章

 
 12節 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
 13節 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、
     それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、
     葉のほかは何もないのに気づかれた。
     いちじくのなる季節ではなかったからである。
 14節 イエスは、その木に向かって言われた。
     「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」
     弟子たちはこれを聞いていた。
 
イエス・キリストのイメージをどの様にもっているでしょうか。
弱い人、病の人、女性、子どもに優しく接した方、愛と慈しみ深い方というイメージがあると思います。
しかし、福音書の中には、必ずしもそんな優しいイエス様の姿だけでなく、厳しい姿、暴力的とさえ思えるシーンが時々あるのです。
愛は優しいだけでなく時には厳しくあるものです。
マルコ11:15~16には、神の宮で暴れたイエス様の姿が記されています。
 
マルコの福音書 11章
 15節 それから、彼らはエルサレムに着いた。
     イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、
     両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、
 16節 また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
 
さて、このイチジクの木の話は、エルサレム郊外での事です。
ベタニヤ村にイチジクの木があり、イエス様は空腹を覚えて、イチジクの木に近づいていったのですが、葉っぱだけで、イチジクの実は全くなかったので、イエス様はその木を呪ったというものです。
〈11:14〉
私達は、このみことばをどのように読み理解したらいいのでしょう。
さらっと読むと、葉の生い茂ったイチジクの木に近づいて実が全くなかったので「何だ、葉っぱだけ?」と、いういらいらした個人的な怒りと失望感を表しているようにみえます。
しかし、イエス・キリストはそんなに小さな方でしょうか。
二匹の小魚五つのパンで五千人を食べさせた方ですから、決してそんな事はありません。
私達は、旧約聖書時代の預言者の人達がどのように預言したかという事を知る必要があります。
 
エレミヤ書 13章
 1節 主は私にこう仰せられた。
    「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。」
 4節 「あなたが買って、腰に着けているその帯を取り、すぐ、
           ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。」
 5節 そこで、主が私に命じられたように、私は行って、
    それをユーフラテス川のほとりに隠した。
 6節 多くの日を経て、主は私に仰せられた。
    「すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」
 7節 私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、
    なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。
 8節 すると、私に次のような主のことばがあった。
 9節 「主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。
 10節 わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、
    ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、
    何の役にも立たないこの帯のようになる。
 
アモス書 8章
 1節 神である主は、私にこのように示された。
    そこに一かごの夏のくだものがあった。
 2節 主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」
    私が、「一かごの夏のくだものです。」と言うと、主は私に仰せられた。
    「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。
 3節 その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。
    ――神である主の御告げ。――
    多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」
 
預言的象徴行為というものです。
ここで、「イチジクの木」とは、イスラエル(神の民)の象徴的なものです。
イスラエルの民は、よくイチジクの木、ブドウなどに例えられています。
そもそも、イスラエルという国は、他に例のないくらいの熱心な宗教国でした。
今日でさえ、イスラエルの人々はモーセの律法に従って、安息日を守り、安息日には決して仕事をせず、交通機関、バス、電車は全て止まってしまいます。
イエス様のいた当時でも、ローマ帝国の中で、最も宗教に篤い国であり、ローマ帝国も一目置いていたくらい宗教に熱心な国でした。
イスラエルの宗教を認めていたとも聞いた事があります。
 
日に三度の祈り、施し、聖書の暗唱に熱心です。
イエス・キリストの時代、人々は聖書の律法の教えに基づいて、そのルールを厳守する事を信仰深い事と思い込み、生活していました。
ルールが次々とルールを作り、律法の解釈にまた解釈が加わっていき、膨大な律法のルールで人々はがんじがらめになっていたのです。
これは、今日の日本の中でもある事です。
聖書の文字が、規則が一人歩きして、ほとんどの人々はその律法の解釈に振り回され、本来、律法は人々の祝福の為、幸せの為、人々が気持ち良く生活して、幸いな生活をする為にあるのに、むしろ、がんじがらめになって、不幸になっていった現実がありました。
聖書の本来の教えと全くかけ外れていたのです。
ルカ10:42からの良きサマリヤ人の例えは、まさに皮肉です。
 
さて、葉っぱの茂ったイチジクの木のたとえですが、イスラエルの人々は宗教に熱心ではあるけれども、本当に大切な事を忘れていました。
律法が本来教えている事、愛、思いやり、あわれみの心、これをイスラエルは全く失っていたのです。
どんなに修行しても奉仕しても、宗教行為、儀式に熱心であっても、それは見せかけにしかすぎない、実りのないものでした。
イエス様がどんなに愛を示し、いやし、奇蹟を行なっても人々の目は開かれず、変わらなかったのです。
イエス様はそんなイスラエルに対して、「もうお前の実は決してならないように。」と皮肉を込めて悲しみつつ心で涙を流して言われたのです。
今日においても、キリスト教会の中でも活動が中心だったりするところがあります。
それだけではいけないのです。
愛や憐みなど、本当に大切な事を、交わりの中で求めていく事が重要です。
本当に大切な事、私達はそれを見極めなければいけません。
 
ガラテヤ人への手紙 5章
 22節 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
  23節 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。