いやされた水

列王記 第Ⅱ 2章

 
 19節 この町の人々がエリシャに言った。
     「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、
          水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
 20節 すると、エリシャは言った。
     「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」
     人々は彼のところにそれを持って来た。
 21節 エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。
     「主はこう仰せられる。
          『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう死も流産も起こらない。』」
 22節 こうして、水は良くなり、今日に至っている。
     エリシャが言ったことばのとおりである。
 
今日のみことばに記されているのは、エリシャの最初の預言者としての働きで、生きたまま天に上った預言者エリヤ先生の”力”がエリシャに継承され、人々がエリシャを預言者として認め敬った出来事です。
 
・エリコの人々の悩み(19節)
エリコは世界最古の町の一つで、その歴史はB.C.5000~6000年に遡るとも言われるくらい高い文化と伝統を持った町でした。
エリコの住人は、自分達の町を誇り、満足していました。
しかし、どんなに素晴らしい町でも、完全な、全てが満足できる町というのはまずありえません。
エリコの町の大きな問題は”水が悪い”でした。
“水が悪い”という事は、直接生活に密着した深刻な問題で、“エリコの水は悪く、流産が多い。(19節)”ようでした。
エリコは砂漠の中にあるオアシスによって養われている水の豊かな町ではあったのですが、水質が悪く、流産をするという事は、本当に深刻なレベルだったのです。
“流産が多い”というエリコの人々の訴えは、”子を失う”という言葉の使役形です。
”この土地は流産を起こさせる”と原因を示しており、水のせいで、人間だけでなく、土地や自然環境も被害をこうむっている事を表します。
(たとえば、
 
エゼキエル書 14章 15節
もし、その地にわたしが悪い獣を行き巡らせ、その地を不毛にし
荒れ果てさせ、獣のために通り過ぎる者もなくなるとき、
 
マラキ 3章 11節
 わたしはあなたがたのために、
 いなごをしかって、
 あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、
 畑のぶどうの木が不作とならないようにする。
 
ですから、エリコの水は相当に水質が悪く、婦人のみではなく、家畜、樹木、果物、農作物にも悪影響があり、それらが十分に成長しきれないという問題があったように思われます。
エリコの人々の深刻な願いと訴えを受けて、憐み深い預言者エリシャは「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」と言いました。(20節)
今昔問わず、塩は大変有益なもので、料理に欠かせないものでした。
また、塩には浄化や保存の”力”も含まれています。
ここでは、塩は清める力の象徴として表されています。
 
(1)エリシャは水の源に行った。
 
河口でも、河の中流域でもなく、水の湧き出てくる水源に行ったのです。
水を癒す為には、水が流れてくる、その水源にまで遡る事が必要です。
 
★私達は人生を真面目に正しく生きていこうと思ったり、
 また、私達の行動や言葉で正しくありたいと願う反面
 しばしば外側だけを取りつくろってしまう事も多く
 自己嫌悪や良心の呵責に悩ませられる事もしばしばです。
 私達は、神から離れた心、自分を中心にする心にその根源がある事、
そこにまで遡らなければ解決はない事を知るべきなのです。
  神が私達の心の奥底にあるどす黒い罪の部分に
触れてくださらなければその癒しはないのです。
 
(2)エリシャはそこに塩を投げ入れた。
 
“塩”は清める働きをしますし、”薄く和らげる”意味があります。
 
私達はいつも罪と汚れを清める塩であるイエス・キリストを私達の心の中に投げ込む必要があります。
そしていつもイエス・キリストに私達の綺麗になった心の中を保存していただく事が必要なのです。
 
(3)エリシャは神のみことばの権威をもって語り命じている。(21節)
 
エリシャは泉に塩を投げ入れた事は事実です。
そして塩は水を清めた事も事実ですが、そこには神のみことばの権威が働いたという超自然的な神のご介入による奇跡があったという事です。
これは、現代科学では表しえない、神の全能の力が働いて水の質を変えたという事なのです。
イエス・キリストは、ガリラヤのカナの結婚式で、このエリシャと同じような奇跡を行なわれました。
キリストは、水をブドウ酒に変えたのです。
キリストは、心の中に入り、その人の心の中まで支配して、清めてくださるのです。(Ⅱコリント5:17)
 
コリント人への手紙 第Ⅱ 5章 17節
 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。