ルカの福音書 18章
9節 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、
イエスはこのようなたとえを話された。
10節 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11節 パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。
『神よ。
私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、
ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12節 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、
その十分の一をささげております。』
13節 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、
自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
イエス様はよくたとえ話で人々に語られました。
たとえ話にもいろいろな種類があり、ある時は、たとえ話により福音を分かり易く伝え、またある時は極端に違う二つの物を相対比させ羊と山羊のたとえにみられるように、神の裁きを人々に厳しく警告され、また今日のパリサイ人と取税人のたとえのように、高ぶった人々を戒められました。
私達は、この相対する二人というより、二種類のタイプの人について、当時の人々にかえってその人々の状況や生活をみてみましょう。
パリサイ人
ユダヤが独立した頃、中下層階級の手工業者の間にリバイバルがあり、
熱心な旧約聖書研究家を中心におこってきたものといわれています。
パリサイとは、”分離されたもの”の意味で、様々な汚れから自分を分離して
聖く身を保とうとしたというものです。
イエス様の時代には、ユダヤには三大教派グループ(サドカイ派、エッセネ派、パリサイ派)があり、その中でも最大のグループで、ヘロデの時代に六千人のパリサイ人、パリサイ派門下に二万五千人いたという記録があります。
そして、イエス・キリストに最も対立した人々が、このパリサイ人でした。
律法の形式だけを重んじるパリサイ人にとって、律法の本質と目的を教えるイエス様が、彼らには理解出来ず、迫害したのです。
イエス様は、パリサイ人がパリサイ人だから非難したのではなく、パリサイ人の偽善(心を伴わない行ない)を責めたのです。
取税人
ローマ帝国の徴税下請人の事です。
盗人で、脅したり騙したりと不正に税を取り立てていました。(ルカ19:8)
当時の人々からは取税人は盗人、詐欺師として憎まれ、同胞から税を取り立てる
ローマの手先として非国民とされていました。
ルカの福音書 19章 8節
ところがザアカイは立って、主に言った。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエス様は、当時、人々から”先生”と呼ばれ最も尊敬されていた人でした。
パリサイ人と、逆に人々から敬遠され、最も憎まれた取税人とをたくみにたとえ話の中で対比させています。
この二人の人への世間の評価は明らかでしたが、神であるイエス様はどう評価されたのでしょうか。
(1)自己認識が違った
私達は出かける前などに鏡に自分の顔や姿を写し出して自分を見ます。
しかし、鏡によって真の自分を知る事は出来ません。
その人の真の姿は”心”にあるからです。
私達は自分の心の中をどれくらい正直に見つめているでしょうか。
パリサイ人は律法の精神と目的を知らない人々でした。
律法を厳格に守れば、義としてくれる天国にも受け入れてくれると思っていたのです。
確かに多くのパリサイ人は律法に厳格で、行ないでは罪を犯さなかったようです。(11、12節)
使徒パウロもそう言っています。(マルコ7:3、4)
ユダヤの人々は、律法の形式だけを守ればそれで良い人々とされていました。
しかし、その結果、人々は疲れた果てたのです。
マルコの福音書 7章
3節 ――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、
昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、
4節 また、市場から帰ったときには、
からだをきよめてからでないと食事をしない。
まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、
堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――
イエス・キリストは・・・
律法の精神とは愛(ローマ13:8)
律法の目的とは幸い(申命記5:32、33)
ローマ人への手紙 13章 8節
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。
ただし、互いに愛し合うことについては別です。
他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。
申命記 5章
32節 あなたがたは、あなたがたの神、主が名じれられたとおりに守り行ないなさい。
右にも左にもそれてはならない。
33節 あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。
あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、
長く生きるためである。
一方、取税人は、自分の心を知り、真実の自分の姿を知っていました。(13節)
皆さんは、外側だけを取り繕い、人々の前で良い評判を得ようとしたり、また品行方正である自分を見せようと努力してはいないでしょうか。
そこには時として、偽善の落とし穴があり、罪の罠があります。
私達はもっと心の中、内面の部分に注意を向けようではありませんか。
このことは、クリスチャンとして例外ではありません。
いえ、クリスチャンである者こそが正しい自己認識、自己理解を欠く時に、外側だけを取り繕うとしてしまうのではないでしょうか。
私達は取税人のような心、神の前に罪人(一人の愚かな罪人である事)を決して忘れてはいけません。
いつもそんな自己認識を持って歩むべきではないでしょうか。
この事は、クリスチャン生活の基本、というより本質なのです。
元パリサイ人で、キリストにダマスコ途上で出会い、回心したパウロは年齢を重ね、それと共に砕かれました。(Ⅰコリント15:9→Ⅰテモテ1:15)
コリント人への手紙 第Ⅰ 15章 9節
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。
なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
テモテへの手紙 第Ⅰ 1章 15節
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」
ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
私はその罪人のかしらです。
(2)祈りが違った
パリサイ人の祈り。(11、12節)
これは神への祈りではありません。
祈りのポーズをとっているだけであり、自分自身に対して祈っているのです。
つまり、単なる独り言、自己満足です。(マタイ6:5)
また、他者との比較の中で祈っています。
イエス様はこのパリサイ人の宗教的な行ない(善行)を否定してはいません。
そのような行ないを誇る高慢さを戒めておられます。(9節、Ⅱコリント11:20)
マタイの福音書 6章 5節
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。
まことに、あなたがたに告げます。
彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
コリント人への手紙 第Ⅱ 11章 20節
事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、
だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。
取税人は真実な叫びをしています。(13節)
心の底から湧き上がってくる、真の祈りをしているのです。
人に見せたり、聞かせたりする形式だけの祈りとは違います。
さて、神の評価はどうだったのでしょう。
14節
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」