賢い娘、愚かな娘

マタイの福音書 25章

1節 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2節 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3節 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4節 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5節 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6節 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
7節 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8節 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。
       私たちのともしびは消えそうです。』
9節 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。
       それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10節 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、
          彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11節 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12節 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
13節 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。
 
今、あなたの頭の中でイエス・キリストをイメージしてください。
イエス様はどんな様子や姿、格好をしておられるのか想像してください。
ほとんどの方は、苦難のキリストの姿、もしくは温和で愛に満ちた優しいキリストの姿を思うかもしれません。
それはたぶん、そのような絵画を見て、イメージが目に焼き付いているからかもしれません。
それも良いのですが、逆に、イエス・キリストのもう一つの側面(あまり画家によって描かれていない)を思い起こす事、現在のイエス・キリストの姿を知る事も大切です。
 
ヨハネの黙示録 1章
 13節 それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。
 14節 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。
 15節 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水のようであった。
 16節 また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
 
キリストは2000年前、十字架にかかり、死に、葬られ、黄泉に行きましたが、死から甦り、勝利者として天に凱旋していかれたのです。
そして、その時御使いを通して与えられた約束は・・・
 
使徒の働き 1章 11節
 そして、こう言った。
 「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。
  あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、
  天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、
  またおいでになります。」
 
キリストは”再び来られる(再臨)”。
この約束は聖書に何度も繰り返し書かれている約束なのです。
今日は、再臨の備えや心構えについてイエス様のたとえ話からご一緒にみことばを学んでいきたいと思います。
 
このたとえ話を理解する為には、まずユダヤの結婚式について知らなければなりません。
ユダヤの結婚式は秋に行われたそうです。
秋とは、収穫期、ブドウ摘みが行われた頃です。
人々の心が心身共に解放され自由で平和な心の状態の時でした。
同胞愛の強いユダヤ人にとって結婚式は村全体をあげての行事でもあり、祭日の祭日とも言われていました。
親族はもとより、友人、友人の友人も招かれます。
 
花婿、花嫁のそばには式を盛り立てる友人達がいました。(今日のベストマン・ブライズメイド)
結婚式前夜、花婿は、友人達を伴い花嫁を迎える為、花嫁の父の家(実家)に行きました。
司会を務める友人達によって、行列が組まれ、花婿の前に友人達が先だって行き、花嫁の家に行って「そら花婿だ。迎えに出よ。」と叫んだのです。
この声を聞いた花嫁の10人のブライズメイドは、ランプに油を入れ、花嫁と花婿の二人の出会いを照らして喜んだのです。
花婿は父親にあいさつし、そこで二人の結婚の祝福の祈祷がなされ、花婿は式場(会場)となる自分の家に花嫁を導いて行ったのです。
5節の「花婿が(花嫁の家に来るのが)遅れたので・・・」とありますが、結婚式の準備の為に、花婿は夜遅くまで働き、真夜中に、電話もない時代ですから、予告なしに花嫁を迎えに行く事もあったといいます。
しかしこれは、失礼でも非常識な事でもありませんでした。
むしろ、一種の演出だったのかもしれません。
 
さて、このイエス様のたとえ話を聞いた人々は、みなユダヤ人でしたから、そのような事は、見たり、聞いたいり、また経験したりした事だったので、良く分かった事と思います。
このたとえ話で、イエス様が一番言いたい事は
 
13節 「だから、目をさましていなさい。
         あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」
 
このイエス様の警告は24:42、44にもあります。
つまり、とても重要な事なのです。
 
マタイの福音書 24章 
42節 だから、目をさましていなさい。
    あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
44節 だから、あなたがたも用心していなさい。
    なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
 
ところで、イエス様の再臨の時期を特定しようとした人が今まで多くいました。
何故、これらの人は、イエス様のことばを素直に受け入れないのでしょう。(25:13)
キリストの再臨の時が分からないからこそ、喜びも大きいのではないでしょうか。
 
さて、花婿を迎える10人の娘達のうち「5人は賢く、5人は愚かであった。」とあります。
何故、5人は賢く、5人は愚かだったのでしょうか。
 
1 目をさましていたか、眠っていたかの違いでしょうか。
 
5節に10人の娘はみな眠っていたとありますので、これは違います。
愚かな娘→ランプ+ランプの中にも油
賢い娘 →ランプ+ランプの中にも油+容器に更に油を用意
花婿がいつ来てもいいように、万一に備えて更に油を持っていた、用意周到であった事がその違いでした。
私達はいつ、どこでキリストを迎えてもいいように備えているでしょうか。
普段、私達は今の私達の生活が永遠に続くかのように錯覚します。
しかし、必ず全てには終わりがきます。
私達は今日にもキリストの再臨を迎えても良いように生活すべきです。
 
2 私達はいつも燈をもやしつづけ、また自分の内に油を用意していなければなりません。
 
油→聖霊を象徴しています。
聖霊の油をともし、いつも聖霊に満たされていなければなりません。
8節「私達のともしびは消えそうです。」
同じことばがⅠテサロニケ5:19にあります。
 
テサロニケ人への手紙 第Ⅰ 5章 19節
 御霊を消してはなりません。
 
さて、”愚かな”という言葉には、派生して別の意味があります。(マタイ5:13、味がなくなる)
愚かな者→砂の上に家(人生)を建てた人
賢い者 →キリストという岩の上に家(人生)を建てた人
つまり、賢い人は、しっかりとした人生観を持っている人の事です。
私達も聖霊を頂いて、世の光、地の塩として歩みたいものです。
 
マタイの福音書 5章 13節
 あなたがたは、地の塩です。
 もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。
 もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
 
3 キリストの再臨を待つ人の態度
 
これは、喜びに満たされた花嫁のようです。
キリストの再臨とは、今の苦しみから逃れる手段、逃れる場として理解している人がいますが、それは違います。
また、再臨を恐々と待つ人もいますが、それは違います。
そうではなく、私達はキリストに出会う事を喜びの希望とし、また神の豊かな報いに期待しましょう。
(伝道者12:14 、Ⅰテモテ5:25)
 
伝道者の書 12章 14節
 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。
 
テモテへの手紙 第Ⅰ 5章 25節
 同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、
 そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。
 
最後に・・
 
エペソ人への手紙 5章
 15節 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、
 16節 機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
 17節 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
 18節 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 19節 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
 20節 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。
 21節 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。