もっと器を備えよ

列王記 第Ⅱ 4章

 1節 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。
    「あなたのしもべである私の夫が死にました。
          ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。
          ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷に
          しようとしております。」
 2節 エリシャは彼女に言った。
    「何をしてあげようか。
          あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」
          彼女は答えた。
          「はしための家には何もありません。
          ただ、油のつぼ一つしかありません。」
 3節 すると、彼は言った。
    「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。
          からの器を、それも、一つ二つではいけません。
 4節 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。
    そのすべての器に油をつぎなさい。
    いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
 5節 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、
    子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。
 6節 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。
    「もっと器を持って来なさい。」
    子どもが彼女に、
    「もう器はありません。」
    と言うと、油は止まった。
 7節 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。
    「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。
          その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」
 
今日のみことばの時代背景は少し分かりにくいのですが、神のことばを学ぶ神学校での出来事で、一献身者の死によって、一家族の上に重くのしかかった試練と神の救いがテーマとなっています。
 
私達が生きていこうとする時、”試練”ということばからは誰一人として逃れる事は出来ません。
しかし、この”試練”という体験をただ苦しい残酷なものだけとするか、試練をバネとし、多くの収穫として、貴重な、神からの感謝すべき体験とするかは、その人の中の真の信仰にかかっています。
 
ところで、”試練”といいましても、突然襲ってくる試練と前々から予想出来る試練、また不可抗的な試練と自分の弱さや失敗から招く試練があるのではないかと思います。
 
1節
 
この女性に襲ってきた試練は、”夫の死”という突然の不可抗的なものでした。
この女性の子どもが小さかった事からすれば、この夫婦が連れ添った期間は短かったかもしれません。
しかし、時間の長短に関係なく、伴侶を失うという事は、この女性にとっても、子どもにとっても、大変な悲しみであり、一家の大黒柱を失った痛手は相当大きかったでしょう。
しかし、悲しみに沈んでばかりはいられません。
残された者は、現実に戻り、生きていかなければならないのです。
肩を寄せ合って生きていこうとする3人の前に、世間の風は厳しく、無情なもので、同情などしてくれません。
夫の死の悲しみの次にやってきたのが、借金、貸主の恐怖でした。
執拗な取り立てに精神的な暴力。
毎日が恐怖と不安の連続だったかもしれません。
いえ、この女性にとってもっと恐ろしかったのは、貸主の強迫よりも、合法的に二人の子どもを奴隷として取られ、家族が引き裂かれる事ではなかったでしょうか。
彼女には悲しみと恐怖と不安が一気に覆いかぶさってきたのです。
 
しかし、どのような状況に立たされたとしても、信仰者には避難所があります。
それは”救いを与える”という絶対的な場所です。
つまり、神に願い求める事が出来るのです。
 
一説の、この預言者の妻の、エリシャへの悲痛な叫びは、一見エリシャに不満をぶちまけている様にも聞こえますが、「あなたのしもべは主を恐れておりました」という、このやもめのことばから分かる様に神に献げ神に従い、仕えて来た者の神の約束を信じる正当な神への訴えでした。
 
詩篇 121篇
 6節 昼も、日が、あなたを打つことがなく、
    夜も、月が、あなたを打つことはない。
 7節 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、
    あなたのいのちを守られる。
 
これが彼女の確信だったのです。
新約聖書でも有名なみことばです。
 
コリント人への手紙 第Ⅰ 10章 13節
 あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。
 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に
会わせるようなことはなさいません。
 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
 
彼女が神に向かい、祈り、願い求めていった時に、具体的に神のわざがなされていきました。
愛と憐みに満ちた預言者エリシャは彼女の痛みを深く理解して、その未亡人に答えました。

「何をしてあげようか。」
 
このエリシャの言葉には、「神にとって出来ない事はひとつもありません。神様はもう備えておられるのですよ」という優しい慰めと安らぎを与えるものに満ちています。
エリシャは更に続けて言いました。
 
「あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」
 
家に帰っていかなくても、何があるのか調べてなくても、彼女がエリシャに答えるのは簡単でした。
 
「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」
 
調度品、食糧等は何もありません。
借金のカタに取られたのでしょうか。
しかも、油のつぼの中身は、全くありません。
油のつぼは、イスラエルのどの家にもあったもので、砂漠気候の地では、日中の暑さから身を守る為には、どうしても体に油を塗る必要がありました。
 
エリシャは言いました。(3~4節)
この未亡人は、エリシャの言う事がどういう事が全く分かりませんでした。
「器を借りてきなさい。しかも、空の器を何個も。」
彼女は頭を傾げたかもしれません。
しかし、疑わずに、ただ信じてエリシャの言葉に従ったのです。
 
彼女はとにかく、隣近所からありとあらゆる空の器を借りてきました。
そして、家中器を並べ、エリシャの指示通り、家の中の後ろの戸を閉じて、自分の油のつぼから油をついだのです。
すると、次から次へと泉のように油が湧いて出てくるではありませんか。
誰よりも驚いたのは、今自分の手で奇跡を体験している彼女自身だった事でしょう。
彼女は器がいっぱいになったので、子ども達に「もっと器を、もっと器を」持ってきなさい、と言いました。
器は油に満たされ、彼女の心も感謝と喜びで満たされました。
「もっと器を。多くの器を。大きな器を。」
これは、私達が神様に求めても良い事なのではないでしょうか。
私達の方で出来る事は、神の為に、器をもっともっと求める事ではないでしょうか。
器を備えるのは私達で、器を満たすのは神様なのです。

私達が出来る事は器を備える事だけなのです。