5000人の給食

ヨハネの福音書 6章

 
5節 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。
   「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6節 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。
   イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7節 ピリポはイエスに答えた。
   「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8節 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9節 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10節 イエスは言われた。
   「人々をすわらせなさい。」
   その場所には草が多かった。
   そこで、男たちはすわった。
   その数はおよそ五千人であった。
11節 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。
   また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12節 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。
   「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13節 彼らは集めてみた。
   すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、
        なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
14節 人々は、イエスのなさったしるしを見て、
「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」
と言った。
 
22節 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこには小舟が一隻あっただけで、
          ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっしょに乗られないで、
          弟子たちだけが行ったということに気づいた。
23節 しかし、主が感謝をささげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、
          テベリヤから数隻の小舟が来た。
24節 群衆は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、
          自分たちもその小舟に乗り込んで、イエスを捜してカペナウムに来た。
25節 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。
   「先生。いつここにおいでになりましたか。」
26節 イエスは答えて言われた。
   「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、
パンを食べて満腹したからです。
27節 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、
       永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
   それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。
   この人の子を父すなわち神が認証されたからです。
28節 すると彼らはイエスに言った。
   「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
29節 イエスは答えて言われた。
   「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 
この「五千人の給食」の記事は、四つの福音書全部に記されています。
この奇跡は、弟子達にとって、また福音書記者にとって大変印象深い出来事だったのでしょう。
 
イエス・キリストの生涯は33年だったと言われています。
もちろん、聖書の中に33年という数字はありません。
しかし、ルカ・ヨハネの福音書にヒントがあります。
 
ルカの福音書 3章 23節
 教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。
 
そして更に年に一度の過越の祭りをヨハネは四回記録しています。(ヨハネ2:13、5:1、6:4、11:55)
 
ヨハネの福音書 2章 13節
 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 
5章 1節
 その後、ユダヤ人の祭り(※)があって、イエスはエルサレムに上られた。
 ※定冠詞のある異本があり、その場合は過越祭の事
 
6章 4節
 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
 
11章 55節
 さて、ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。
 多くの人々が、身を清めるために、過越の祭りの前にいなかからエルサレムに上って来た。
 
十字架にかかる一年前の出来事で、この時期のイエス・キリストの人気は絶頂期になっていました。
イエス・キリストの奇跡をみたい、権威あるみことばを聞きたい、触りたいと思った多くの群衆に、まさにもみくちゃにされる程でした。
それゆえ、イエス様はくたびれていました。
一人山に登り、お祈りをしようとも思われていたのですが、次々に群衆が来るので、彼らを深く憐れむと共に、
 
ルカの福音書 9章 11節
 ところが、多くの群衆がこれを知って、ついて来た。
 それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、
   また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。
 
群衆は最初、各々が朝弁当を持ってイエス様の話を聞きに来ていたのでしょうが、イエス様の話に聞き入っているうちに、気が付くと、陽も傾きかけていました。
彼らは夕食の分までは持ってきていませんでした。
しかも悪い事に、人里離れた所で、多くのパンを手に入れるのが困難という状況の中でした。
弟子達も群衆も慌てた事でしょう。
イエス様はピリポの信仰を試す為に言われました。(5節)
何故ピリポに言われたのかは分かりません。
ピリポがイエス様の側にいたからかもしれませんし、食事の買い出し係りだったのかもしれません。
 
イエス様はかつてカナの結婚式で、祝宴のブドウ酒がきれた時に何百リットルの水をブドウ酒に変える奇跡をなさいました。
その時、弟子達もそこにいたのです。
イエス様はピリポを始めとする弟子達にこの事を思い起こして欲しかったのです。
しかし、ピリポの答えは非常に現実的なものでした。(7節)
なぜなら、群衆は男性だけで約5000人もいたからです。
 
マタイの福音書 14章 21節
 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
 
という事は、全員で1万人か、それ以上いたと考えられます。
 
ペテロの兄弟、アンデレもピリポと同様に現実的な事しか答えていません。(9節)
弟子達は人間的に不可能な事を可能にするお方が傍にいる事を忘れていたのです。
神の子イエス・キリストがここにいるのに、イエス様抜きで物事を考えようとしました。
イエス様は、ご自分の行なった奇跡を、彼らに思い出しなさいと言いたいかのようです。
 
イエス様はまず、群衆を座らせるようにと命じます。
これは
 1 落ち着かせる為
 2 秩序を守る為
 3 一人一人確実に、速やかに食べ物を回せる為
だと思います。
 
イエス様は五つのパンと二匹の魚をとって神に感謝の祈りを奉げて12弟子達のカゴにそれを分け与えると、パン、魚は増えていったのです。
人々は「食べて満腹した」と聖書は記しています。
そして更に12弟子の背負う12のカゴがパンで一杯になったともあります。
神の子イエス・キリストは水→ブドウ酒に変えるという、質を支配する方だけでなく、少量→多量に変える量をも支配する方だという事が分かります。
人々は、この奇跡を見て、また舌で味わって、イエス様を預言者と認め、イスラエル(ユダヤ)の王に祭り上げようとしたのです。
しかし、イエス様はそこから逃れ、山に退かれご自分の時を祈っておられました。
けれど群衆はしつこくイエス様に付きまとったのです。(6:26、27)
 
 
さて、私達はこのイエス様の奇跡を通して、今何を学び、何を教えられるでしょうか。
 
 
① 神の無限の豊かさを教え、また私達の必要に応じて豊かに与えてくださる方である
 
神を信じるとは、精神的・霊的な事で、日常生活に余り関係ないと分離する傾向があります。
しかし、神様は私達の日常生活にも心を配ってくださる方です。
 
では、私達が求めるものは何でしょうか。
聖書は何と書いているでしょう。
 
マタイの福音書 6章 33節
 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 
② 神は与える者、献げる者を豊かに用い、祝福される
 
この少年は大麦のパン5つ、小さい魚2匹を献げました。
この男の子は自分の弁当をイエス様に献げたのです。
すると、イエス様はそれを大きく用いられました。
私達は経済感覚上は、神に与え、献げる者は、貧しくなると教えられたりします。
しかし、信仰の世界は祈り、真の豊かさとは、神に献げ、人に仕える人にあるのではないでしょうか。
 
③ 食物には、霊・肉の2種類がある
  
ヨハネの福音書 6章 27節
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、
永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。
この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 
「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」
これが、すべてのクリスチャンへの神からの使命です。
人が真に必要な食物とは、永遠の命への食物です。
それは、みことばなのです。
 
④ 神は一つも無駄になさらない