称賛された信仰

マタイの福音書 15章

 
 21節 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
 22節 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。
     「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。
娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
 23節 しかし、イエスは彼女に一言もお答にならなかった。
     そこで、弟子たちはみもとに来て、
     「あの女を帰してやってください。
叫びながらあとについて来るのです。」
と言ってイエスに願った。
 24節 しかし、イエスは答えて、
     「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには
遣わされていません。」と言われた。
 25節 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、
     「主よ。私をお助けください。」と言った。
 26節 すると、イエスは答えて、
     「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです。」
     と言われた。
 27節 しかし、女は言った。
     「主よ。そのとおりです。
ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
 
聖書の中でイエス様からその信仰を褒められた人はわずかです。
私の記憶が正しければ、二人の人物がイエス様から褒められています。
一人はユダヤに駐屯していたカペナウムの百人隊長です。(8:5~13)
特に10節に、イエス様の権威を認め、イエス様の言葉を信じている姿があります。
もう一人はカナンの女性です。
私達は彼女の中に、子の為にはどこまでも追い求めてやまない母親の愛を見る事が出来ます。
愛ゆえの謙虚さ、機知に富んだことば・・・その中からは、彼女の必死な思いが伝わってくるようです。
 
マタイの福音書 8章
 5節 イエスがカペナウムにはいられると、
           ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
 6節 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、
           ひどく苦しんでおります。」
 7節 イエスは彼に言われた。
    「行って、直してあげよう。」
 8節 しかし、百人隊長は答えて言った。
    「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。
    ただ、おことばをいただかせてください。
    そうすれば、私のしもべは直りますから。
 9節 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、
          私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』
          と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。
          また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
 10節 イエスはこれを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。
     「まことに、あなたがたに告げます。
            わたしはイスラエルのうちのだれにも、
            このような信仰を見たことがありません。
 11節 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、
     天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
 12節 しかし、御国の子らは、外の暗やみに放り出され、
     そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
 13節 それから、イエスは百人隊長に言われた。
     「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」
     すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
 
みことばをみていきましょう。(21~23節)
イエス・キリストは、ユダヤ人達の追求を避ける為に、異邦人の地シドンとフェニキヤに退かれました。
ところが、イエス・キリストの評判は、テレビやラジオ、新聞などマスメディアの無い時代にも拘らず、異邦人の地の隅々にまで伝わっていたのです。
人間の口の力とはすごいものだと感じさせられます。
口から口へ、人から人へとイエス様の噂は広がっていきました。
そして、イエス様に人が集まり、その中に一人の婦人がいました。
マタイはカナン人の女、マルコはギリシャ人と記しています。
聖書が○○人と書く場合、それは
1 人種を表す場合
2 出身地を表す場合
の二通りがあります。
おそらく、ギリシャ人か、ギリシャ系の人種でカナン出身の女性だったのでしょう。
 
マタイ、マルコがなぜこの女性の出身、または人種を書いたのでしょうか。
それは、彼女がユダヤ人ではなく、「異邦人」であったという事を伝えたかったのです。
その彼女にとっての悩みは、愛する娘が悪霊に憑りつかれているという事でした。
しかも、「ひどくとりつかれている」(22節)とあります。
彼女の娘への愛は、この箇所の至る所で、ことばや流れからひしひしと伝わってくるようです。(22~27節の中の行動等)
我が子を思う母の愛は「強し」です。(22、25節の「主よ、を」私の娘を、ではない)
最近は、母の愛がこの日本で薄れてきた事を嘆く事も多いです。
母と子の無理心中、虐待など・・・。
しかし、そんな中で私はやはり、母の愛の強さを感じる時もあります。
 
母の愛は、何をもいとわない、犠牲的なものであります。
子を思う母の愛は、犠牲的な愛と言っても、時として狭く、自己中心的なものでもあります。
 
この箇所は、この女性のイエス様への信仰と彼女の母の愛がうまくかみ合っていて、いろいろと教えられることも多いものです。
マタイ、マルコにも印象深かったのでしょう。
 
○この女の人はどこまでも謙虚であった。(23~25節)
 我が子への必死な思いがそうさせたのでしょう。
 
○この人は素直にイエス様のことばを受け入れた。(26~27節)
 イエス様の言葉が厳しくても、それに対して怒らずに受け止めました。
 愛は耐え忍ぶ力を与えるのです。(Ⅰコリント13:7)
 
(コリント人への手紙 第Ⅰ 13章 
4節 愛は寛容であり、愛は親切です。
    また人をねたみません。
   愛は自慢せず、高慢になりません。
5節 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、
   怒らず、人のした悪を思わず、
6節 不正を喜ばずに真理を喜びます。)
 
コリント人への手紙 第Ⅰ 13章 7節
 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを着たいし、すべてを耐え忍びます。
 
○この女の人には驚く程の霊的理解力が与えられた。(25~27節)
 この女性の機知に富んだ謙虚な言葉は実に見事です。
 
イエス様はこの女性に対して、とても厳しく接されました。
しかしそれは、彼女の信仰を試し、また人々に彼女の信仰を表す為でした。
イエス様の厳しい言葉の中には、この女性とその子への愛が溢れていたのです。
その愛の力は28節にあります。
 
28節 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。
    「ああ、あなたの信仰はりっぱです。
その願いどおりになるように。」
すると、彼女の娘はその時から直った。