神の国にふさわしい者

『神の国にふさわしい者』 

 
ルカの福音書 9章
 57節 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。
            「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」
 58節 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
            人の子には枕する所もありません。」
 59節 イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかし、その人は言った。
            「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 60節 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、
            神の国を言い広めなさい。」
 61節 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、
            家の者にいとまごいに帰らせてください。」
 62節 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、
            神の国にふさわしくありません。」
 
今日はイエス様に弟子入りを志願した3人の人物について、私達にもそのような心がないかどうかも含め、みていきましょう。
 
イエス様はエルサレムに向かっており、その思いはすべての人の罪の贖いの為の十字架にありました。
既に、イエス様はご自身の苦難への予告と覚悟を悟っておられました。
弟子達にも言っておられます。(9:22、23)
 
ルカの福音書 9章
 22節 そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、
            律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
 23節 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
            日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
 
最初の弟子入り志願者(57節)
 イエス様の立派な教えに感動して・・・・律法と道徳の教師
 イエス様の力ある業に驚いて・・・神の預言者
この人は、イエス様の華やかさ(教えや業)に引きつけられて願い求めたのでしょう。
 
しかし、実際に神に従う道は、イエス様の十字架がそうだったように、時として厳しい事も覚悟しておかなければなりません。(9:58)
“人の子”とは、イエス様がご自分の称号としてすぐ用いられたもので、神が人となってきてくださった、神のしもべの姿を表している言葉です。
イエス様は、神の口の為に働き、休むところもなかった生活でした。
時として、徹夜で祈られ、野宿をし、旅に旅を重ねて神の愛の福音を伝えられたのです。
 
ではイエス様は、3~4世紀頃の修道士達のように、神に従う事を自分からあえて難しくしなさいと言われたのでしょうか。
ここで、イエス様はあえて自分から困難な生活をしなさいと言われたのではなく、どんなに状況が、(キリストに従う事によって)困難になろうとも十分な覚悟が必要、どこまでも、何が起ころうとも、神に従い、キリストに従いなさいという事なのです。
イエスに従っていくには、将来の可能性や今までの快適な生活さえも投げ打ってかまわないという覚悟が必要なのです。
戦時中、日本のキリスト教は弾圧をうけました。
私達は安易な気持ちや一時的情熱ではなく、どこまでも従っていく覚悟が必要なのです。
それこそ、神の国にふさわしい者の生き方です。
 
次にイエス様はご自分から別の人に言われました。(59節)
イエス様が直接招かれた例はあまりありません。
ペテロ・ヤコブ・ヨハネ・マタイなどです。
ですから、イエス様はこの人に特別な思いをもって招かれたのかもしれません。
しかし・・・59~60節
イエス様は何と厳しい方だろうと憤慨する人もいます。
キリスト教は何て親不孝な宗教だろうと考える人もいます。
しかし、誤解してはいけません。
聖書は聖書によって解釈し、全体の流れの中で見ていかなければなりません。
聖書は親不孝を奨励しているでしょうか。
いえ、旧約聖書の出エジプト20:12に人としてすべき最も大切な戒めがあります。(他にも、ルカ18:20 Ⅰ列王記19:20)
 
出エジプト記 20章12節
 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
 
ルカの福音書 18章20節
 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。
  偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
 
列王記 第Ⅰ 19章20節
 エリシャは牛をほうっておいて、エリヤのあとを追いかけて行って言った。
   「私の父と母とに口づけをさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」
  エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたというのか。」
 
 
ここで、弟子としてイエス様から招かれたこの人の心の中には、今は都合があってすぐに従えないという口実があったのです。
こういう人は何かに口実をつけて従う事を伸ばし延ばしする人です。
この人の父が亡くなったばかりで、葬式をしなければならない、という事なら、イエス様は(エリヤがエリシャを赦したように)この人に行ってきなさいと言われた事でしょう。
しかし、この人の父親は今すぐにでも死にそうだ、死んだという事ではないのです。
つまり、単なる口実だったのです。
神の招きがあれば、私達はこの世の理由や都合をつけて拒まないようにすぐに応じる者でありましょう。
主の招きこそ他のいかなる義務にも優先すべきなのです。
神の国にふさわしい者とは、主の招きとその使命に忠実なものなのです。
 
最後に主に従う前に家にいとまごいに行かせてくれという人がいました。(61節)
この人の心には主の招きに応じる心の熱心さはありましたが、この世への未練もありました。
心が二つに分かれ、清められていなかったのです。(ロトの妻 創世記19:26 アブラハム 創世記11:31 12:4)
 
創世記 19章26節
 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
 
創世記 11章31節
 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラハムの妻である
  嫁のサライを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。
  しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。
 
創世記 12章4節
 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。
  アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
 
キリストの真の弟子とは、神の国を目指す人です。(62節)
イエス・キリストを一心に見つめて目を離さない人であり、神の国の為、主に従い、奉仕し、前進する人なのです。(へブル12:2)
 
へブル人への手紙 12章2節
 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に
   置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
 
前も後ろもみるような生き方ではいけないのです。
イエス・キリストの教え荒れたこれら三つの弟子のあり方、神の国にふさわしい者の生き方は、私達へのチャレンジとして与えられています。
その証拠に、イエス・キリストのことばを受けたこの三人の弟子の反応が記されていません。
その答えはあなたが出しなさいという事なのです。
 

これらのイエス様の言葉は、時として厳しく映るものですが、従おうとする人にとって、神の導きと慰めと力とを与えるみことばでもありました。