族長ヨセフの思いに触れる
創世記50章
 
 15節 ヨセフの兄弟たちが、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが
     彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」と言った。
 16節 そこで彼らはことづけしてヨセフに言った。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。
 17節 『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことしたが、どうか、あなたの兄弟たち
            のそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦して
            ください。」ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた。
 18節 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」
 19節 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。
 20節 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それはきょうの
            ようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
 21節 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」
            こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。
 22節 ヨセフとその父の家族とはエジプトに住み、ヨセフは百十歳まで生きた。
 23節 ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生まれて、ヨセフのひざに抱かれた。
 24節 ヨセフは兄弟たちに言った。「私は死のうとしている。神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、
            イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」
 25節 そうして、ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださるから、そのとき、
            あなたがたは私の遺体をここから携え上ってください。」と言った。
 26節 ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。
 
どの様に死ぬかというこの人生最大の難関に対して私達は、どう応え迎えたら良いのかという大テーマを抱えて生きています。
「どの様に死んでいくかは、どう生きたかにかかっている。」と良く言われますが、その通りだと私は思います。
 
この族長ヨセフは、実に素晴らしい死に方をしています。
ヨセフは若い時、少々高慢で鼻につく言動もあって、兄弟達から嫌われていました。
しかし、エジプトで様々な苦しみにあって、一つ一つその困難を乗り越えながら成長していきます。
そして神様への信仰・希望が強くなり、エジプトの総理大臣にまで上り詰めた、当時実質世界一偉い地位にまでなった人なのです。
ですが、愛と憐れみも忘れていませんでした。
族長ヨセフは、「全き人」と言われますが、愚痴や不満は一つもない生き方をしていました。
人を裁いたり、憎んだり、仕返しをしたりもしない、ちゃんと道理をわきまえ、正しい生き方をしていた人だったのです。
 
ヨセフの心の中には、神とアブラハムが交わした神の約束が常にその奥の奥に基盤としてありました。
故郷から離れていた彼はエジプトに住んで高い身分に上り詰めても、常に心の中に神がおられ、神の約束の地、カナンと、そこに住む父ヤコブ、またその家族に望郷の思いがあったのです。
長男マナセという名前から、「神が私の父の全家を忘れさせた。(創世記41:51)」と、カナンの地とその家を恋い慕う辛い思いを持っていた事を知る事が出来ます。(創世記50:15~21)
 
ヨセフは、自分をエジプトに奴隷として売った兄達を少しも恨んでいませんでした。
一点の曇りも無い心を持っていた事が聖書には記されています。
私達はしばしば様々な困難、苦しみ、苦労、辛い事に出会うとその事を人のせいや環境のせいにしたり、自分の今を受け入れきれないでいる事も多いものです。
ヨセフの兄弟達は、父ヤコブが死ぬ事を、また死んでからの事を最も恐れていました。
エジプトの総理大臣になったヨセフには権力があり、力関係で圧倒的に弱い兄弟達は、父ヤコブの死後、ヨセフに復讐されると思っていたのです。
そしてついにその日がやってきました。
ヨセフの兄達は、復讐を恐れて、父ヤコブを盾として、その遺言を勝手につくりあげてヨセフに言います。(創世記50:17)
兄達は、「赦してください」と言っていますが、本当に悔い改めているのでしょうか。
恐らく口先だけです。
本当に悔い改めたら、保身は考えません。
しかし、この器の小さい兄達に比べ、ヨセフは何と器が大きい事でしょう。(創世記50:20)
 
ヨセフは、このエジプトでの様々な苦しみを神のご摂理、ご計画だと理解していたのです。
このヨセフの心は、パウロのローマ8:28のみことばを引き出しています。
 
ローマ人への手紙 8章28節
 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 
また、イエス・キリストの「汝の敵を愛しなさい」とは、このようなところを参考にしているのでしょう。
イエス・キリストの教えは、旧約聖書の時代にもあった事で、新しい教えであると共に、旧い教えでもあるのです。
 
ヨセフの臨終の時の言葉があります。
ヨセフにとって、エジプトは神の約束の地ではありませんでした。
神がアブラハムと交わした地は、カナンです。
ヨセフは死ぬまで故郷カナンに戻れませんでした。(創世記50:24,25)
 
ヨセフはエジプトが永住の地、神の約束の地でない事を知っていました。
ヨセフの臨終の際の言葉は死ぬ前の遺言でした、また、この言葉は一つの預言、いつかエジプトを脱出するという出エジプトの預言でもあったのです。
ヨセフのこの遺言はその後エジプトでイスラエル人が奴隷となり苦しみに遭う事、またそこから脱出する時が後必ずやってくる事を預言している希望のことばでした。
400年後モーセはこのヨセフの語った預言から力を得たのです。
モーセはこの預言(遺言)通りにヨセフの遺骸をエジプトから持ちだしています。
 
出エジプト記 13章19節
 モーセはヨセフの遺骸を携えて来た。それはヨセフが、「神は必ず、あなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない。」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせたからである。
 
ヨセフは数百年たってからも、イスラエルに希望を与え、影響を与え、人々に確信をもたらしたのです。
ヨセフは、400年間エジプトにあって、イスラエルに常に「あなたの場所、故郷はここ、エジプトではない。カナンに帰れ。」と、肉体が滅んで骨になってからでも、信仰によって人々に語っていたのです。(ヘブル11:22、11:40)
 
へブル人への手紙 11章22節
 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。
へブル人への手紙 11章40節
 神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
 
私たちは遺骨になって何を語れるのでしょうか。
たとえ肉が無くなっても、人々に希望を与え、信仰の道を教え、証しし、自分の家族は言うまでもなく、その子孫、末代に至るまで沈黙の中でも人々の心に届くメッセージを語るものになりたいものです。
どれだけ多くの功績を残したのか、ということではなく、目に見えるものより、目に見えない信仰を残すものとなりましょう。
信仰の人こそ偉大なのです。