聖書の教える天の御国とは?
マタイの福音書13章 
           44節 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
               人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、
               持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
           45節 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
           46節 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払って
               それを買ってしまいます。
           47節 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
           48節 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは
               捨てるのです。
           49節 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
           50節 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 
「天の御国」と言う言葉をイエス・キリストはよく使用しています。いわゆる「天国」のことですが、日本という国で育った私たちにとって天国とは、極楽のイメージがあったり、死んでからしか行けないという様に考えているのではないでしょうか。
でも、聖書が教える天の御国には、時間・空間・性質など様々なものが入っています。
そして何よりも天の御国とは、今生きているここにあるという極めて現実的なものです。
一言でいうと、神様が支配されている領域の事で、誰でもいつでもすぐに天国を持てる現実的なものなのです。
 
ルカ17:20~21
20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。
   「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。」
21 『そら、ここにある。』とか『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。
   神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
ヨハネ7:38
  わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
  
マタイ5:3~
山上の説教は、天の御国の人々の性質の事で、人の心の状態を神がご支配されるとどうなるのか、ということを示しています。
心の貧しさ(真の謙虚)、心のきよさ、深い悲しみの心・柔和で穏やかな心、義しさを心が渇望する心、憐れみの心、平和を愛する心、迫害でさえも甘んじる心、天の御国の子どもには、この様な性質を心に宿しているのです。
本来人が持ち得ない心、でも、神のご支配が聖霊によって心に満ちる時、私たちはこの様な性質をもつようになるのです。
 
さて、マタイ13章は、「天の御国」という言葉が多く出てきますし、実際6つの教えがここにあります。
 
1)畑に隠された宝のたとえ 天の御国は畑に隠された宝のようなもの(44)
 
日本でも昔話の中で「ポチが畑でワンとなく・・・正直じいさん掘ったらば大判小判がザクザク」とあるように、昔イスラエルでも戦が多かった時代は、自分の財産を畑に隠し、戦が終わってからまた掘って・・・という事がありました。
でも持ち主が殺されて時間がたち、時代が変わって偶然に後の時代の人が見つける事もあったのです。
このたとえ話は、自分の畑でない畑を何故勝手に掘ったのかという疑問は残りますが、もしくは今はやりの農家の畑を借りて耕していたのかもしれませんが、他人の所有する畑に宝が隠されている事を知った人は、全ての財産を投げ打って畑を買います。
なぜなら、もっと多くの価値が畑ではなく宝にあるからです。
 
天の御国は、たまたま見つけた宝のようなものです。
別にずっと求め捜していたわけではない、でも御国には、自分の全財産を犠牲にしても悔いない程測り知れない価値があるのです。
天の御国を自分のものとして所有することはそれ程の価値があるということです。
パウロは、本来、名門の出であり、ローマの市民権があり、多くの財産をもっていたと思われますが、「私はキリストのために全てを捨てて、それらをチリ・アクタと思っている。」(ピリピ3:8)と言っています。
チリ・アクタとは、牛・馬の糞または残飯のことです。
確かに、天の御国の価値を本当に知った人には、この世の全てのものを犠牲にしてでも悔いない程の計り知れないものがあるのでしょう。
イエス・キリストとの出会いは同様に価値があるものです。
世界中で、最も影響力のある人を一人選べというと、イエス・キリストでしょう。
イエス・キリストは本当の愛を人類に教え、自ら実行された唯一の方です。
この宝、キリストに偶然に出会って、真の価値観を持つようになった人々も測り知れません。
 
2)真珠を買う商人のたとえ話 天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなもの(45.46)
 
どんな商人でも、より良いもの、もっと良い価値のあるものを捜して回るものです。
それにより世界中をめぐる商人も少なくはありません。
多くの商人がそうなのかもしれませんが、一番良いもの、自分が最も価値のあるものと認めたものは、決して売らないと聞いています。
このたとえに出てくる商人は、持ち物すべてを売り払ってでも、この真珠を本当に愛していたから手元に置いておきたかったのでしょう。
畑に隠された宝は偶然に発見し幸運な事でしたが、ここでは、ずっとずっと捜していた、求めていた本当に価値のある真珠を見つけた人のたとえです。
二つのたとえは共にかけがえのない測り知れない価値があり、偶然にみつけた人、捜しまわり、求め続けてやっと見つけた人の喜びが書かれています。
イエス・キリストとの出会いも同様です。
天国への道、永遠のいのち、魂の真の平安・やすらぎをずっと求めてきた人もいるのです。
 
3)地引き網のたとえ話天の御国は~地引き網のようなもの(47~50)
 
天の御国のスケールの大きさ、あらゆる時代あらゆる歴史あらゆる国々、あらゆる人々を含んでいるたとえです。
この地上に生まれた全ての国の全ての人々に深く関わる事で、一言で言うと、この世の終わりに、神のさばきが行われる様をたとえたものです。
地引き網で引き寄せた魚が、有益で価値ある魚と全く価値のない魚とに分けられ、価値ないものは捨てられるように、神様は全ての人を地引き網のようにご自身の前に引き寄せて、キリストを信じる正しい人とキリストに逆らい、否定する人・無視して歩む人とに区別して、えり分けるという事です。(いわゆる最後の審判の事)
イエス・キリストは信じても、信じなくても良いのではなく、信じなければ結果は悲惨なのです。
天の御国は今、ここにあります。
人々が神の前に引き出されてさばかれる時、キリストの本当の価値が分かるのです。
キリストを信じない人々は、その時人生最大の後悔をします。
 
ローマ人への手紙
10章 9節 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神は
       イエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
    10節 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
    13節 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
 

地引き網のたとえは、天の御国の始まり、から完成までの全てを含んでいるスケールの大きなたとえ話なのです。