天国のかけら「わたしは彼らの中に住む」
出エジプト  25章
 
  1 主はモーセに告げて仰せられた。
  2 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。
    すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
  3 彼らから受けてよい奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
  4 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
  5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
  6 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、
  7 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石。
  8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
  9 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、
    わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。
 
 
旧約時代、特に創世記の中に出てくる「祭壇を築く」(神聖な場所、手段:創世記
という表現、これは、神に祈り、神と語り、神の声を聞くアイテムでした。
アダム、ノア、アブラハム・・・皆、神の善きを求める為に作ったのですが、その礼拝は、家族単位のものでした。(創世記)
次の出エジプトから礼拝の規模がかわっていきます。一つの民族・共同体が神を礼拝する時代がやってくるのです。神はイスラエルの中に一つ一つ詳しく設計された幕屋をつくることを命じられました。
それが出エジプト25:1~9であり、500年続いています。
 
※創世記
  8章20節 ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから
         幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。
   12章7節 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」
         と仰せられた。
         アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
  22章9節 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。
         そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
     8節 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、
         東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。 
 
 
【出エジプト25:8~9】
 
神様がモーセに、神の細かな指示に基づいて設計された幕屋を建てる様に命じられたのは、イスラエルの民が神のご臨在を感じるようになる為でした。(出エジプト25:8)
神様がイスラエル民族一人ひとりの間に住んでくださるということ、そしてその人間が、各々神の民としての歩みとして個人が自覚をもって生きていくこと、その為にモーセの十戒(律法の様々な規定・基準が)与えられたのです。
神様の命じられた通りに幕屋はつくられたのですが、この出エジプト25章~31章にある幕屋の設計記事では、今日再現するのは難しいそうです。
ですが想像を働かせて、ある程度はCGで出来ます。
神の幕屋はモーセの時代、B.C10世紀頃まで500年間続き、ソロモンの神殿(エルサレム)に引き継がれていきます。
ただし、イスラエルが国家となり、サウル王・ダビデ王が治めていた頃は、幕屋そのものはなく、その中心である契約の箱のみがあり、礼拝の対象となっていた様です。
 
ソロモン王が神殿を神に奉納したのがB.C950年頃。
イスラエルの人々は、この神殿に神と出会うため礼拝にいきました。
彼らはネブカデネザル大王(バビロン)に破壊されるまで約350年間この神殿で神を礼拝しました。
その間イスラエルの南北分裂があり、また神殿は異教の神々にのっとられたり、様々な異なった礼拝の場所ともなりました。
多くの不信仰な人々が神殿を汚した結果、バビロンによる破壊がなされたと言ってもいいでしょう。
その後バビロンから帰還したネヘミヤたちが乏しく貧しい中で、また外敵から攻撃されながらも再びエルサレム神殿(第2神殿)を築きました。
イエス・キリストの時代には、ヘロデ大王がユダヤ人の機嫌を取るため、大規模な神殿補修を40年以上にわたって行いました。
 
しかし、エルサレム神殿の中にあった神の契約の箱(アーク)は既に無くなっていたのです。
多くの人々はそれでも、神殿に行って礼拝し、牛・羊・鳩などを捧げていました。
人々は神殿が神と出会う聖なる場所として、また聖めてもらう為、神殿に行っていたのですが、イエス・キリストは、幕屋礼拝・神殿礼拝の本質をよくご存知でした。
 
 
《聖所をつくるなら、わたしは彼らの中に住む》
 
 
神様は、まず個人個人の心の中(霊的、精神的、内的なもの)に深く入っていかれます。
そしてその人の中に住まわれる方が聖霊様ということです。
イエス様は、ご自身が《神殿》だといわれました。(ヨハネ2:19.21 ※1
また、ヨハネは福音書の中で、イエス様が神なのに地上にこられた(幕屋を張った)と語り、旧約聖書のモーセの幕屋が、神である人そのものに、とって変わったと言っています。(ヨハネ1:14 ※2
 
イエス・キリストは、神殿であり、全ての人はこのイエス様によって神様と交わり、また(永遠の)大祭司イエス様によって罪の贖いと赦しを受けます。
そして真理・道・いのちであるこの方を通して天国への道を歩み、また天国の門が開かれています。
イエス・キリストは、天のみ国に通じ入る唯一の道なのです。
 
イエスは彼に言われた。「私が道であり、真理であり、いのりなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
 
イエス・キリスト=天国への道をよく踏み固めて歩めということでしょう。
私たちの人生は、イエス・キリストの犠牲によって築かれていくべきだということです。
キリストの上を歩めば歩む程、キリストの愛と犠牲・苦しみと痛みを自分のものとすることができる。
そしてそのキリストの愛で私たちも神と人の為に生きていくことができる者となるのです。
イエス様はまことの神殿ですが、イエス様が復活して天に帰られると、そのイエス様の代わりに、真理の御霊が、従う人々に注がれ、その心に宿ってくださるのです。
 
※1 ヨハネの福音書
    2章19節 イエスは彼らに答えて言われた。
           「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
         21節 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
※2 ヨハネの福音書
    1章14節 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。
           父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
           この方は恵みとまことに満ちておられた。
 
 
クリスチャンとは、二つの人格を持つ人のことで、自分と御霊という2つの霊をもっています。あなたの心にも聖霊様がいてくださるのです。
私たちは、どちらの人格を優先しているのでしょうか?
自分を優先し、自分の思いだけで生きているキリスト者なら、この世の人々と全く同じで、己の欲求・欲望のままに生きていることになります。
この世の人々も理性があり、ブレーキになるので、動物的本能の趣くままに生きることはありませんが、時には理性が外れ、良心がすり減っている人は、動物的生き方になってしまい、罪を犯し人と自分を不幸に落としてしまうのです。
私たちは、もっと心に住む聖霊を意識し、委ねていくべきです。
新約聖書は、今日の私たちはキリストを土台として立っている神の宮(神の幕屋)であり、私たち自身が神殿だといっています。
〈Ⅰコリント3:16~17→6:19~20 ※1
私たちは、神の霊が内に住んでいてくださる者であるので、自分のからだを以て神の栄光を表しなさいということです。
〈Ⅰコリント10:31 ※2
神に感謝するということを前提にしてパウロはすすめます。
「食べるにも飲むにも何をするにも、ただ神の栄光を表すためにしなさい」
自分の体で神の栄光を表していくことが私たちのつとめ、またあかしなのです。
徳を高めること、(自分ではなく、他の人の利益を求める事、親切・善意・誠実等)これがキリスト者のあるべき姿です。(ガラテヤ5:16~25 ※3
私たちは神の臨在を代表する者ですから、天国の平和と希望を、世の人にも伝えるあらゆる方法を模索していきたいものです。

この地上で天国を少しでも味わうものでありたいです。

※1 コリント人への手紙 第Ⅰ
   3章16節 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに
          宿っておられることを知らないのですか。
     17節  もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。
         
神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。
※2 コリント人への手紙 第Ⅰ
  10章31節 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、
        
  ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 

※3 ガラテヤ人への手紙
     5章16節 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、

                               決して肉の欲望を満足させるようなことはありません
       17節  なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。

            この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、
            自分のしたいと思うことをすることができないのです。
       18節  しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
       19節  肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
       20節  偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
       21節  ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、
            私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。
                               こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
                   22節  しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
                   23節  柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
            
       24節  キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、
                                十字架につけてしまったのです。
         
          25節  もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか