マルコの伝えるキリスト

マルコの福音書

14章
 50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
 51 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。
 52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

16章
 1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、

       イエスに油を塗りに行こうと思い、
   香料を買った。
 2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
 3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。
 4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでに転がしてあった。
 5 それで、墓の中にはいったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。

       彼女たちは驚いた。
 6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、

       十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
   あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」
 7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。
   前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。
 8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。
   そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
 

 マタイの伝える福音書はキリストの福音が世界の人々に宣教されること、大宣教命令で終わっていました。

マルコの伝えるキリストは主にどんなキリストのことを伝えているのでしょうか?
 
マルコの福音書は、ペテロのギリシャ語通訳として常にペテロと行動を共にしていたヨハネ・マルコによって記録されました。
ペテロの語るキリストの働きとメッセージをペテロの許可を得て、共に歩んで、3年来キリストをどのようにみていたのか、どう自分はかかわってきたのかということをペテロの見た視点から証ししています。
ペテロの伝えるイエス・キリストは、マタイ・ルカ・ヨハネとは異なるキリストの一つの側面を描いています。
それは、キリストが人の子として多くの人々に使え、いやし、生き生きと活動しているというものです。
福音書には「すると・・・」「するとすぐに・・・」「それで」「そのとき」という次から次へと展開していくキリストが記されています。
イエス・キリストの語られることをじっくりと聞いてそのメッセージを記録したヨハネとは違い、キリストの業にペテロは目がいったのでしょう。
活動的キリストを描いているのです。
 
さて、そのマルコの福音書には分からない2つの謎があります。
 
【マルコ14:50~52】をまずみていきましょう。
 
マルコ14:50
 イエス・キリストを捕える為に、イスカリオテのユダの手引きによってやってきた群衆は、剣、棒をもって深夜にゲッセマネにやってきました。
明らかに不当で異常な人々に雇われた暴漢達です。
この人々は、祭司長、律法学者、ユダヤの長老達(14:43)からお金で雇われ差し向けられた人々でした。
ペテロは、感情的で、つい剣を抜いてマルコスという兵士の耳を斬り落としたのですが、キリストはさっと触れて耳をもとに戻しました。
その後、ペテロたちは怖くなり、皆散り散りに走って逃げて行ってしまったのです。
「あなたのためなら命も捨てます」と意気込んでいたペテロもキリストを見捨てて逃げていってしまったのです。(14:50)
  
 
14:50→14:53と続くのが、自然の様に思われるのですが14:51,52に挿入されている「みことば」があります。
一人の青年の記録ですが、素肌に亜麻布を着ただけという、たいへん珍しい服装です。
この青年が誰なのか、どういう経緯でこんな恥ずかしい恰好でゲッセマネの園から逃げたのか。
勿論、これが誰なのかを断定するのは無理ですが、いくつかのことから推測することは可能です。
 
1 亜麻布を着ていた。→亜麻布は富裕層の人々が身に着けていた。マルコの家は裕福。
2 素肌に亜麻布をつけていた。→遠くの住人ではなく、エルサレムのゲッセマネの近くに住んでいる。
                マルコはエルサレムの住人。
3 裸で逃げたという他人の恥を知っている。→個人的に知っていて、誰も知らない事。
また、名前を出さない他人の恥を言うのは中傷になります。
これは著者自身と考えるのが自然と思われます。
4 最後の晩餐は二階の大広間で開かれた。大きな客間のある家(14:15)。
これはキリスト、弟子たちの集会所としてたびたび、使用されていた。
使徒1:15(120名の集会所)使徒12:12 マルコ・ヨハネの家は集会所で多くの人が集まっていた。
5 この裸で逃げた青年(若者)は、ペテロと親しい人。
使徒12章でペテロは牢獄からみ使いによって助けだされた後、
まずヨハネ・マルコの家に行った。(使徒12:12~)女中もいた裕福な家。
 
こういう様なことをかみあわせ、しかもこのことが当時の人々によく知られていたということは著者自身・・・つまりマルコの可能性が相当に強いのです。誰かは分からないけれども、マルコが自分の恥を人々に伝えるために、一つの証しとして挿入したと考える事ができます。
自分の恥の弱さを正直に証することは大切な事です。
立派なこと、成功したことを語ることが証しというわけではないのです。
健康ブーム・美容ブームで様々な成功例が宣伝されています。
商品は確かに成功したり、必要を満たさないと証しではありません。
しかし、キリストの証し人は、これと同じレベルでしょうか?
自分の成功ではなく、イエス・キリストの救いが証されているということは、キリストの素晴らしさを人々に伝えているという事・・・罪と咎、死の苦しみからの救い、人間の本質的な救いを提供してくださる方だということです。
マルコは正直に自分の恥を伝えてペテロの通訳としてこのことを証したのでしょう。
  
 
次に16:1~8特に「そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:8)は、あまりにも唐突な終わり方です。
福音書最大の謎と言ってもいいでしょう。結末、結論があって、しかるべきです。
16:8は、ギリシャ語で説明の接続詞(「というのは、ΕΦοβουντο γαρ」)で終わります。
余りにも不自然で唐突過ぎるのです。
結論部分は不明。2つの追加分があとにありますが、この終わり方は謎です。
 
1マルコが突然死した。
2ローマに逮捕され、つれていかれた
3後の編集者が16:9以下を取り除いた。
4何らかの形で消失してしまった。
 
いろいろと考えられるのですが、シナイ写本、ビザンティン写本という有力な写本にも16:9~が入っていないので、マルコの福音書は16:8で終わっているということでしょう。
 
推測はなされるけれども、これはこれで完全だと私は思います。
唐突な終わり方ですが、イエス・キリストの福音、その救いの働きをマルコは十分に完全に私たちに伝えている。したがって、これで十分だと思います。
福音書は4つあります。マタイ・ルカ・ヨハネと相、補い合い、補足しあって読むことで超立体的(4D)なキリストの姿が現れます。マルコは生き生きとしたキリストの姿を私たちに伝えて、ある意味で一番、身近なキリストを私たちに提示してくれているようです。
 
聖書は、ときどき読者に問題を投げかけています。
どんな反応をするのかと、読者に伝えているのです。
ヨナ書4:9~11、マルコ16:8を読んだ時、私たちは神にキリストにどんな答えを出すのでしょうか。
聖書はその反応を求めているのです。
みことばを読んで読みっぱなしではなく、反応し、呼応していくことこそ求められている事だと思います。

聖書は読みっぱなしではなく、常に私達はどう答えていくか、という反応をする者でありたいと思います。