神に信頼して生きる
マタイ 7章1節~12節
 
 1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
 
 2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 
 3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 
 4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。
   見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
 
 5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、
         ちりを取り除くことができます。
 
 6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に真珠を投げてはなりません。
   それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
 
 7 求めなさい。(あるいは「求め続けなさい。」)そうすれば与えられます。
   捜しなさい。(あるいは「探し続けなさい。」)そうすれば見つかります。
   たたきなさい。(あるいはたたき続けなさい。)そうすれば開かれます。
 
 8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 
 9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
 
10 また、子が魚を下さいというのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 
11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。
   とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、
         求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
 
12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。
        (あるいは「あなたがたもそのようにしなさい。」)
   これが律法であり、預言者です。
 
 
8月下旬、近くの温泉に行った時の事、広い浴槽で40代と思われる方が、腕立て伏せをしていました。
30~50回ぐらいしていたでしょうか・・・その男性はモヒカンが特徴的で、とても不思議な雰囲気を持った人です。
 
男性は私に近寄ってきて、自分の事を話し始めました。
男性はキックボクシングをしていたとの事。
しかし、腰を痛めた事で辞めたそうです。
彼は私に、「体はいくらでも鍛えられますけど、中身(内臓など)の病気をそれで防ぐのは難しいです。特に糖尿病は恐ろしい病気です。」と言いました。
 
どれだけ腰や肩、腕や足を守る為に鍛えても、内臓を鍛えるというのはとても難しいのです。
また同じように、心を鍛える事も大変難しい、と私は思います。
 
さて、今日はマタイ7:1~12の箇所を見ていきます。
7章1節「さばいてはいけません。さばかれない為です。」
このみ言葉は大変霊的インパクトがあります。
 
ストレスの多い現代社会、特に日本社会で穏やかに生きていくのは難しい事です。
このイエス様のみことばで、自分と他者との間に神様という存在を置く事で、心を治める事が出来るという事でしょう。
つまり、他者との関係をより客観的に、より霊的に観る事を勧めているのです。
 
(7:1~4)
「さばく」とは、他人の荒探しをする事、批判する事です。
いつの時代も、人は互いに他人を「さばき」ます。
イエス・キリストは旅に出る前までは大工でしたので、日々家の梁とその梁を切った時に出る「ちり」=「おがくず」とを目にしており、ユーモアと皮肉をこめてこれを例えとして用いています。
人は、自分は平等に他人と接していると思っていても、自分以外の人間には厳しいものです。
自分の子どもに注意をする時にそう思います。。
自分は小さい頃、同じ事をしたではないか、注意されても辞めなかった時もあった自分が子どもを叱れるか、と。
勿論叱らなければいけませんが、昔注意された事を、今注意する時、子どもは自分のコピーのようだと思わされるのです。
人は、なかなか謙遜になれないので、自分を中心に、また自分の目が正しいと思い、自分を基準にして、他人を測ってしまうのです。
 
「さばいてはいけません。さばかれない為です。」
 
この言葉は自分を基準にして、他の人をさばく事を禁じています。
なぜなら、今度はあなたが神様にさばかれ、測られるからです。
(なぜなら、今度はあなたが、他の人をさばいた事を神様に裁かれ、測られるからです。)
私達は、本来自分に甘いものなので、7:3・・・いえ、9:1くらいの割合で自分に厳しく、他人に甘くすれば丁度良いのかもしれません。

 

私達には幸いな事に、神様のみことば、聖書が与えられています。
このみ言葉を正しい基準としていれば自分をその基準に照らし合わせて、次に他の人を照らし合わせることができます。
 
私たちはいつかは自分が神様の裁きの座に現れて、人生すべての事を神のはかりで裁かれます。
それにより、このイエス様のみことばを現実のものとして、自分に受けるのです。
 
ですから神様を侮ってはいけません。(ヘブル9:27)
 
次に7:6に有名な格言となった言葉があります。
〈豚に真珠〉〈犬と聖なるもの〉です。
生き方・性格・素行のあまり良くない女性がダイヤモンド・ルビー・真珠でどんなに飾っても美しくはない、という意味です。
 
でも、本来の意味はそういう事ではないのです。
イエス・キリストは梁とちりを大と小の比較の例えとして用いられました。
〈豚に真珠〉〈犬と聖なるもの〉はユダヤでは、豚はけがれたもの、価値のないもの(異邦人)でした。
犬も豚同様、口からはいたものを再び食べる(反芻)ので汚れたきたないものの象徴です。
一方真珠や聖なるものは本当に尊い、価値のあるもののことです。
それは神のみ言葉であり、イエス様の語った福音の事です。
私達神を信じる者にとってみ言葉や福音は本当に素晴らしい価値のあるものだけれども、心を閉じて聞こうとしない人・心の目が閉じられ、自己批判、反省など自らを省みない人に尊いみ言葉や福音を語っても却って反対に自分が攻撃されて傷ついてしまいます。
 
イエス様は正しいみ言葉をパリサイ人・律法学者に語ったにも拘わらず福音の素晴らしさはこの自分を正しいとする偽善者には理解されず、「踏みにじる」どころかさらに悪い事に十字架につけて殺してしまったのです。
私たちもたとえ正しいと思っても反対に攻撃される事もあるので、人によっては言えない、語れない人もいるのです。
少なくとも、私達は、パリサイ人の様であってはいけません。
自分の事を棚にあげて他の人のことばかりを批判しているのなら、パリサイ人と全て同じです。
まず、自分の罪と弱さを正直に認めて悔い改めなければいけません。
 
神の国に入る唯一の方法はこの罪の悔い改めなのです。
神への信頼こそがこの自分勝手にさばかない根底にあるのです。
〈7:7~12〉
神の国を求める事
神に信頼して求めなさい。
捜しなさい。
叩きなさい。
 
イエス様は私たちに積極的に探究心を持つ事が大切と言われました。
神の国を求め続けなさい、と。
たとえ求めても与えられないからと言って諦めてはいけません。
自分から探しなさい、探してもみつからなかったら門をたたいてみなさい。
そうすると、うるさくて開けてもらえます。
神の国を積極的に求めていく事という探究心が大切なのです。
 
父親は子どもの為にいつも良いものを与えようと考えています。
天の父も私たち神の子どもに良いものを与えてくださいます。
神は私たちを愛し、最良のものをくださるのです。
自己満足に陥る事なく求め続ける姿勢こそキリストを信じる者の道です。
 
更に7:12に黄金律があります。
当時のユダヤ教のラビは「あなた自身の憎むことをあなたの隣人にしてはいけない」と言いました。
孔子も「自分の嫌がる事を人にしてはいけない」と言っています。
イエス・キリストは積極的に「自分にしてもらいたいことはほかの人にもそのようにしなさい」と言いました。
積極的な愛の働きかけ、隣人愛の教えです。
神を心から愛し、隣人を自分のように愛するという事です。
 
これは全ての人間関係の最も基本的であり最も重要な教えだと思います。
この事は私と隣人の間に神様という柱を置く事で成り立ち、神への強い信頼こそが、ゆだねきった信仰こそがあれば必ずできる事なのです。
このイエス様の裁く事の禁止、求める事の忍耐と大切さ、隣人の益を測る事・・・
全て私たちに大きく手を広げて受け入れてくださっています。
神のご愛が賜物として私達に与えられてはじめて出来る事なのです。
もっと神に信頼して神の愛を疑わないでいくことこそがとても大切なのです。