^ 「御国の完成へ〜主よ来ませり!」
「御国の完成へ〜主よ来ませり!」
 

ヨハネの黙示録 1章

9節
私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、 パトモスという島にいた。

10節
私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

11節
その声はこう言った。
「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、 サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

12節
そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。
振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

13節
それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、 胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

14節
その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

15節
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、 その声は大水の音のようであった。

16節
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。


22章

2節
都の大通りの中央を流れていた。
川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。
また、その木の葉は諸国の民をいやした。

3節
もはや、のろわれるものは何もない。
神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

4節
神の御顔を仰ぎ見る。
また、彼らの額には神の名がついている。

5節
もはや夜がない。
神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である。

6節
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」
と言った。
預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに 示そうとされたのである。

7節
「見よ。わたしはすぐに来る。
この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」

8節
これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。
私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、 ひれ伏して拝もうとした。

9節
すると、彼は私に言った。
「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。
神を拝みなさい。」

10節
また、彼は私に言った。
「この書の預言のことばを封じてはいけない。
時が近づいているからである。

11節
不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。
正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

12節
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを 携えて来る。

13節
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。
初めであり、終わりである。」

14節
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる 者は、幸いである。

15節
犬ども
※、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを 行なう者はみな、外に出される。

(※動物の犬ではなく、悔い改めない罪深い人の事。)


福音派に属する私たちは、家族や友人や近所の方が(究極的には終末にくる最後の審判で神の前に立つので) 天国に入れるように何とか救われて地獄の苦しみにあわない様に、と強く願い熱心に伝道しましたし今もしているつもりです。
でも日本では残念ながらなかなかイエス・キリストを信じてくれません。
それどころか却って悪口を言われ、苛められたり迫害されたりすることも時にあります。
悲しいことです。
日本の宣教はなかなか進みません。
かと言って終末の最後の審判のみを語って脅迫的な伝道もどうかと思います。
神の愛、キリストの贖いの十字架、復活の希望を証するのが正しいのではないかと思います。

使徒ヨハネが、使徒の働きにペテロと一緒に度々登場することは先聖日のメッセージ で言及しました。
西暦49年に開催された初代教会のエルサレム会議では、 ユダヤの割礼が異邦人にも適応すべきかどうかが主な議題でした。
使徒15章にはヨハネの名前が出ていませんが、そこにヨハネがいたことは確かです。
なぜなら、後にパウロの書いたガラテヤ人の手紙2章9節には、エルサレム会議の時、 エルサレムに上京したパウロとバルナバがその教会で主の兄弟ヤコブとペテロとヨハネと交わりの手を差し伸べたと記されているからです。


ガラテヤ人の手紙 2章 9節

そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、 私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。
それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。


明らかにヨハネは教会の長老の3本柱の一人だったのです。
使徒の働きは後半部はパウロが中心になっていますので(著者がルカなので仕方がありません)、 12使徒は出てきません。
ヨハネがその後どうしたのかは使徒の働きを見る限りは 載っていませんし不明です。

当然ペテロやヨハネやマタイ、トマス、バルトロマイなどの他の使徒たちもユダヤ国内だけでなく、 国外や海外宣教に出ていき全世界に散らばって行ったので、後の西暦2〜4世紀の伝承によらなければなりませんが、 あくまでも伝承なのでどこまで信頼すべきかは難しいところです。
少し余談ですが、
使徒 16章6節〜7節に
「アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」

「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」
などパウロ達の福音宣教を諦めざるをえない状況が漠然と書いてありますが、 最近ではそれは、他の使徒達が既に教会を建てていたからではないかと言われています。
というのも、当時のローマ皇帝に送ったプリニウスの手紙の報告に、その当時 既に多くのキリスト者がアジアやその地域に存在していたことで彼の頭を悩ませていた事が報告されていたからです。
パウロは既に教会があったり、クリスチャンがいた地域には福音を伝えるのを避けたのです。
「わたしは他の人の働きの上に教会を建てない」とも言っています。

さて、ヨハネに話を戻しますが、ヨハネはエペソで福音書を書いたのは確かです。
多くの伝承が残っていますから。
ヨハネの弟子パピアスやアイレナイオスなど、2世紀のヨハネを知り関わった弟子たちが証言しています。
ヨハネの黙示録1章9節には、 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、 パトモスという島にいた。」
と記されています。
使徒ヨハネは、第11代ロ−マ皇帝ドミニティアス(西暦81年9月〜96年9月)の時に、 クリスチャンというだけで断罪され、パトモス島に流罪になります。
西暦95年頃だと言われています。
因みにパトモス島はエ−ゲ海東岸、今日のトルコの沖合に浮かぶ東西9km南北16km面積 34平方kmの火山岩のゴツゴツした岩でできた島で、私たちの知っている島では佐世保のハウステンボスがある 針尾島や大川市とほぼ同じ面積の島です。
ヨハネはそこで1〜2年強制労働をさせられたのではないかと思われます。
90歳を遥かに超えたヨハネにとっては、相当身体にこたえる経験だったことでしょう。
でもパトモスでの経験は決して無駄ではありませんでした。
何もない島パトモス。
でもそこで神様がヨハネに与えた特別な啓示は、 その後の2000年間多くのキリスト者を励まし慰め、究極的希望を与える実に驚くべきものでした。

それは、復活し眩しい光に耀く栄光のキリストの、アジアにある七つの教会への戒め・叱責に始まり、 やがて未来に起こる神の経綸・計画即ち預言でした。
ヨハネは言います。
「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。
その声はこう言った。
「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、 サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」(10〜11)。
更に、「その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。
また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえた あの初めの声が言った。
『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』(4章1節)。

1章から3章は1世紀末の7つの教会へのメッセ−ジ、 4章からは明らかに1世紀末から後に起こる出来事の未来預言です。
ヨハネは神の現す、その奇異とも思える幻を体験します。
それは実に恐ろしい目を覆うほどの光景でした。
7つの封印(6:1〜8:5)、7つのラッパ(8:6〜11:19)、 7つの鉢の災害(15〜16章)、また地上でのキリスト者への迫害と殉教(12〜14章)、 千年王国と最後の審判(19〜20章)、そして新しい天と新しい地(21〜22章) 、宇宙の贖いによる天地の完成、罪や死や悲しみのない世界。

これまで主に4つの解釈が言われてきました。
1)過去主義…黙示録は紀元1世紀のキリスト教会とローマ帝国との激しい戦い・闘争を示すという解釈。 
2)歴史主義…使徒時代から世の終わりまでの時代を表しているという解釈。
3)未来主義…黙示録の預言的側面を重要視、特に1〜3章の7つの教会は7つの時代を示しているとする
       ディスペンセーション主義で、いまはラオデキアの時代とする解釈。
(福音派の多くがこの立場で宣教したが、今は疑問符。)
       1〜3章は、当時存在した7つの教会へのメッセージとする立場(ここだけ過去主義的解釈)もある。
4)理想主義…象徴的・寓意的解釈。
       紀元4〜5世紀のオリゲネスや教会教父など、
       特定の事件や預言への言及ではなく、
       善と悪の闘争で神の国の完成までの道のりを示すものとする。
等…。
私は1〜3章は、当時のアジアの7つの教会への訓戒と叱責と賞賛のメッセージだと思います。
またそれと同時に、これらの中には、 今日の教会の問題にも共通する普遍的な教えもあるので、 私達が学ぶべきものがある教会の指標だとも思います。
私の理解では、4章以下はこの時代の終焉に起こる出来事であり、 まだ未成就の出来事と解釈しています。
もしかしたらキリストが直接言及された「ひどい苦難」(マタイ24:21)、 「かつてなかったほどの苦難」(ダニエル12:1)、「ヤコブにも苦難の時」(エレミヤ30:7)、 「やみと、暗黒の日」(ヨエル2:2)と預言されてきた最後の7年間の出来事なのかも知れません。
私は、神様は沈黙の時は徹底的に沈黙して語らず、 聖書によって語られる為その存在さえ消し、私たちの信仰を試されるのではないかと思います。
それゆえ今の時代には神はどこにおられるのかと人々は神の存在さえ疑ってしまいます。
(英国の理神論や、神を人格ある神としないで観念論哲学的にとらえる人もいます。)
しかし、聖書が記録する歴史を見ると、神様は歴史の節々で神の力を示しておられます。
ノアの方舟・バベルの塔・ソドムとゴモラの滅亡・出エジプト・バビロン捕囚・キリストの降臨など、 神様は動かれる時には素早く動かれ、その時期には奇跡や天変地異のしるしなどあるのです。
終末の終焉は一気にやって来るのかも知れません。
最後の艱難時代は7年間と言われています。
終わりの時は速やかに始まり速やかに終息完了するのかも知れません。
その日その時がいつなのかイエス・キリストでさえ知らないと言われたのです(マタイ24章36、44、50)。


マタイの福音書 24章

36節
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。
天の御使いたちも子も知りません。
ただ父だけが知っておられます。

44節
だから、あなたがたも用心していなさい。
なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

50節
そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。


ヨハネは、パトモス島で見た幻をキリストや御使いのことばと、 全て映像で鮮明に覚えて記憶し書き記しました。
最も重大な神の啓示と理解したからです。
恐らく紀元95〜96年頃エペソに帰り、この幻をありのまま書いたのです。
非常に奇妙な描写も多いのですが、艱難時代に起こることには、 天変地異とともに子羊なるキリストに挑むこの世の勢力が描かれています。
「6」(不完全数)である人間のあらゆる科学力で、 神に挑むかのような愚かな人間の姿が描かれています。
戦争・飢饉・革命・動乱・暗くなる太陽・隕石(星)の落下・消え失せた天・ 迫害と殉教者・雹・火(火事?)・火山の噴火で海が汚染・川の汚染 ・海・川・地球の大地・天体などの破壊と壊滅。
そして獣の国の台頭(反キリスト)獣礼拝。
すべての民への刻印のしるしと世界支配(13:15〜17)。


ヨハネの黙示録 13章

15節
それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、 また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

16節
また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、 奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

17節
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、 買うことも、売ることもできないようにした。


今日の日本のマイナンバ−制度、フランスの見えない刻印(ある光にてをかざすと浮き出る名前や数字) 、AIの開発で動き話すロボット。
人間がロボットに支配される世界と言っても、 やはりそのロボットをプログラミングして動かすのは、一人の人です。
その人が支配者となるのは十分ありうることです。
従って獣の王国の支配は、 今日の人間の科学技術やコンピュ−タ−などの力と情報で、 十分13章の世界が作りだされる時代に達しているといえます。
ただ、絶対に見落としてならない事は、 これらすべての支配の背後にはサタンの力が働いているということです(13章2〜4節)。
サタンの業の証しとして、「大きなしるし」「火を天から地に降らせる」(13:13)。


ヨハネの黙示録 13章

2節
私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。
竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

3節
その頭のうち一つは打ち殺されたかと思われたが、
その致命的な傷も直ってしまった。
そこで、全地は驚いて、その獣に従い、

4節
そして、竜を拝んだ。
獣に権威を与えたのが竜だからである。
また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。
だれがこれと戦うことができよう。」と言った。


13節
また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。


異常な力と奇跡的なしるしで人々はこの獣を拝み、 サタンを神として礼拝するようになります。
何と異常で恐ろしい暗闇の世界(恐怖の支配)でしょうか。
願わくばそんな世界にキリスト者として生きていたくはありません。
ヨハネは、そんなサタンに支配された異常な世界が、やがて終末の終焉に来ることを幻で見たのです。
ヨハネ自身どのように感じたのでしょうか。
でもヨハネはこの幻を後世の私たちの為に隠さずに書きます。 今、私たちは恐るべき時代に向かい、やがて生きるのでしょうか。
今の時代を見ると十分可能な時代になりつつあります。
私たちは守秘義務があり守っていますが、それらは案外知られています。
地域の宅配はもとより、国は私たちの事を把握しています。
これが世界規模になるのです。
今日十分可能です。
私たちは「主よ。どうかお守りください。弱い私を支えてください。」と祈るしかありません。
でも私たちは天の国の民なので希望があります。 恐ろしい黙示録の世界がこのように描かれていますが、私たちは常にこの時代が破壊や滅びではなく、 御国の完成に向かって神のタイムテ−ブルに従って進んでいるという事を一時も忘れてはいけません。 私たちのタ−ミナルは御国であり、完成された神の新しい天と地に新たな復活のからだをいただいて、 そこに入り永遠に神の光のなかに照らされて生きます。
黙示録21〜22章をゆっくりと味わい、信仰をもって読み期待しましょう。

さて、この黙示録の著者ヨハネについてです。
ヨハネはどんな気持ちで黙示録を書いたのでしょうか?
勿論、神様の啓示で書く事が命じられたのですが(1:1〜3)、
ヨハネはやがてもたらされる神様の勝利と御国の完成をみて、 こころおどり希望をもって待ち望んだことと思います。


ヨハネの黙示録 1章

1節
イエス・キリストの黙示。
これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、 神がキリストにお与えになったものである。
そしてキリストは、その御使いを遣わして、 これをしもべヨハネにお告げになった。

2節
ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、 彼の見たすべての事をあかしした。

3節
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、 そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。
時が近づいているからである。


でもロ−マ皇帝ドミティアヌスの迫害により、ヨハネはパトモス島流罪を受けます。
その強制労働から解放されたとはいえ、身体はボロボロ、90代中盤を迎え、 目も衰え、手を引かれて礼拝に出席しなければならない状況だったのかも知れません。
それでも「兄弟たちよ。互いに愛し合いなさい」が口癖だったと繰り返し言います。
ヨハネの兄ヤコブは殉教(使徒12章)で亡くなりました。
兄を殺したヘロデを、ヨハネはどの様に思い、 また他のペテロやマタイなど殉教していった親友の敵に対しどのように思ったのでしょうか?
それはヨハネに聞いてみなければ分かりませんが、私は、天国でヨハネに会って聞きたいと思います。

私が教会に行き始めた頃、ヨハネからの終末の再臨のメッセージを聞いたことがあります。
キリストの再臨と携挙の話で、ある牧師が自分は天に昇りながら迫害者に「それみたことか」と言いながら天に帰っていくので スカッとする、と語られたことを思い出します。
確かにクリスチャンである自分を、苛めたり差別したり悪口を言ったりした人への、復讐としての再臨という意味合いはよくわかります。

ヨハネはヤコブを殺害したヘロデに対し、
最後の審判に立たされ神に裁かれ、永遠の燃えるゲヘナに投げ込まれるヘロデ王に対しそのように思うのでしょうか。
確かに殉教者の叫びは神様に届きます(6章9〜11節)。

ヨハネの黙示録 6章

9節
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、
自分たちが立てたあかしとのために殺された人人のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

10節
彼らは大声で叫んで言った。
「聖なる、真実な主よ。
いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

11節
すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。
そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、
また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、
もうしばらくの間、休んでいなさい。」
と言い渡された。

私たちはこのことをどのように考えたらいいのでしょうか。
語り合えたらとおもいます。
ヨハネは、ヘロデへの復讐でスカッとしたというよりも、 「裁きは神のなさることなので私が彼を裁くことではない。
神の怒りと裁きには何にも付け加えることはできない。
神様は常に平等に裁かれるので私の気持ちは抑えます。」
と主に全て委ねることができるのかも知れません。
なぜなら、兄ヤコブは天国にいるので、これ以上の幸いはありません。
「神様はいつも最善のことを私にされた。
迫害者ロ−マ皇帝ドミニティアスの迫害で、 神様は寧ろこの黙示録の幻を見せてくださった。
その経験はその後の多くのキリスト者への慰め、 希望を与えるもので、感謝にかわるものだ。」
と思えるのかも知れません。
私たちは、どう考えたらいいのでしょうか。
話し合ってみてもいいかも知れません。
      
       「しかり。わたしはすぐに来る。」ア−メン。主イエスよ、来てください。
        主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。  
                       (ヨハネ黙示録22章20〜21節)