^ 「鋭いタダイ」
「鋭いタダイ」
 

ヨハネ14章22節

イスカリオテでないユダがイエスに言った。
「主よ。
あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、
世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」



私たちキリストを信じる者の願いは、 地域・町々の方々・日本の方々がイエス・キリストを信じて、 平和で問題や争いの少ない世界になることではないかと思います。
パウロの言うように今日も 「平和で静かな一生を送ること」(Tテモテ2:1〜2)が私たちの望みですし、 「みこころが天で行なわれているように地でも行われますように」 との主の祈りは、時代は変わってもこれは変わらない祈り・願いではないかと思います。

テモテへの手紙 T 2章

1節
そこで、まず初めに、このことを勧めます。
すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、 祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

2節
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を 過ごすためです。

ところが現実にはそれが不可能であり、 キリストの再臨を待たねばならない事はキリスト教2000年の歴史をみれば明らかです。
私たち人間の「罪」の問題と「空中の権威者サタンの支配」が世に介入している限り、 またキリストの再臨と贖いの完成までこの時代が続く限り、 「神の国の福音」と「世の支配者サタン」との見えない闘争が続くのです。
弟子タダイのイエス様への疑問は、 一見話の流れに沿わない様にも見えますが、そんなことを暗示している鋭い質問なのではないかと思います。

「どのようにキリストの福音を具体的に世に現していくのか?」

キリストの福音の純粋性を保持しながらも尚、世にキリストを現すことの難しさについてを表した質問です。 
今日は、そのテーマで12弟子のタダイについて見ていきます。

タダイは「母の胸」という意味の名前ですが、 写本によってはレバイとも言われていたようで、 レバ(レバブ)は心臓・こころのことです。
弟子たちのあいだでは二つの名前で呼ばれていたのかも知れません。
イエス・キリストが長い訣別説教を語っているとき、 イスカリオテ・ユダではないユダ・タダイは何を思ったのか、 脈絡なく遮るように突然イエス様に尋ねます。

「主よ。
あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、 世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」(14:22)

タダイは、このイエス様の話が素晴らしかったからか、 なぜ弟子達にだけ話されるのか疑問に思ったのかもしれません。
また、世の人にイエス様の話を聞かせたいとも思ったかもしれません。

私達も聖書を読んでいて、また礼拝や聖書研究会で教えられ感動し、 また特別伝道集会や超教派の集いなどで祝福を受けて、 「このような素晴らしいお話や音楽や書物などを世の人にも知って欲しい」 と強く願うことがあるのではないかと思います。
そして「あの人やこの人に聞かせたい、聞いて欲しい」と願うのです。
世の人にキリストを現したいと思うのです。
あなたの結果はどうでしたか?
同じように感動されたでしょうか?
それともあまり響かなかったでしょうか?
そんな経験を出して互いに証しし話し合いましょう。

イエス様は、タダイに答えられました。
「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。
そうすれば、わたしの父はその人を愛し、 わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」

イエス様はタダイに対し、イエス様との関係こそが、 天地の創造者である父なる神とつながることだということを強調されました。
イエス様を愛さない人達は、 イエス様がどんなに素晴らしい話をしても、耳を貸さないでしょう。
そんな人達は、神様と繋がる事が出来ないのです。

イエス様が弟子達に話しをされた、ご自身を現わされたという事は、 それだけ弟子達を信頼されていたという事でしょう。
そして、この時はイエス様を敵視する人間が多くいました。
これがタダイへのイエス様からの答えでした。

その後の15章の譬え話では、 父の神は農夫で、 イエス様はぶどうの木、そして私たちは木の枝だと言うのです。
幹であるイエス様から枝は切り離されては実を結べないのです。
木の幹から切り離された枯れ枝が、 もしそんな有名無実の教会、キリスト教の学校や病院・施設・法人をしていたら何と残念なことでしょう。
イエス様の教えやみことばが語られないのであれば、存在意義はあるのでしょうか?
結局自分達の地位・名誉・生活のためにその働きを続けていってるとしたら、 イエス様は、また父なる神はそこにいてくださるのでしょうか?
いつの時代もこの本質が、土台がどこにあるのかが問われているのです。
イエス様は徹底的に神のうちに留まることが如何に重要なのかを、 ぶどう園とぶどうの木の譬えでわかりやすく語られました。
私たちの教会はどうでしょうか?
西放伝「世の光」放送は?
WMCAは?
ミッションスクールは?
1890年渋沢栄一(新一万円札)を発起人の一人として経済と道徳を高める為、 西洋列国を迎えての迎賓館として、 帝国ホテルが開業しました。
日本は発展し、日露戦争ではロシアを破り驚かせましたが、 やがてそのホテルも火事で消失してしまいます。
再び新たな帝国ホテルを建てるのですが予算は6倍もオーバーしてしまいます。
調度品や木材に高級な材質を、
と設計者(F.L.ライト)がこだわったからです。 しかし最も予算が大幅に増えたのは避難所としての場所で、 耐震と防火に力を注ぎ基礎工事に相当の時間と費用を使ったからでした。
見栄えを気にして豪華にする事を希望する日本の役人は怒り、 責任者は辞任したそうです。
ライトは土台・基礎の大切さを訴えました。
1923年9月1日、帝国ホテル開業イベント準備中の11時2分に巨大な地震が関東地方を襲いました。
殆どの家が倒壊し、東京は焼け野原になりました。
しかし帝国ホテルは殆ど無傷で被災者の避難所また大使館、報道記者クラブの発信所になったと伝えられています。
基礎土台がどれだけ重要かという事を現代に伝えるエピソードです。
教会もクリスチャンも土台がいのちです。
キリストの教えの上にしっかりと立っている事こそが重要なのです。
イエス様は、12弟子を選び、教え訓練されましたが、 一人脱落したとは言えイエス様はご自身のからだなる教会を建て上げる為に、弟子たちを確かな証人とされました。
つまり3年半徹底的に土台造りをされたのです。
そして仕上げが十字架と復活前の訣別説教でした。
これからの新しい時代(新約時代)、世の中に教会を送り出す前の徹底的な土台造りが先決でありました。
ヨハネは、その説教の重要さを思い出しながら、 私達読者にこの大切なメッセージを語ったのです。

この後イエス・キリストの十字架の死と復活を弟子達は体験し、 再び肉体(復活体)を持ったキリストから大宣教命令がくだります。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいた すべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28章19〜20節)
イエス・キリストは弟子達の証言をもとに、 キリストが現されて行く次のステップへと変わりました。
主イエスの教えと十字架と復活の証言で、 キリストを世に現す時代がやって来たのです。
2000年間今も続く新約時代の始まりでした。

イエス様は福音宣教の時代にそれを妨げる霊:サタンの存在を明らかにされ 「この世を支配する者が来るからです。
彼はわたしに対して何もすることはできません。」(30)
と悪の力がこれから強く働くことをも明確に語られました。
ただ、イエス様に対してはサタンは無力であることも示されました。
この時から「神の国の福音」と「この世の君サタン:空中の権威をもつ支配者」 の戦いが二千年間続き、そして今日も尚続いているのです。
サタンの怖さは何でしょうか?
サタンは欺く者とも言われています。(Uテサロニケ2:8〜12)

テサロニケ人への手紙 2章

8説
その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、 来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

9説
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、 あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

10説
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。
なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

11説
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

12説
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

サタンはエバを欺いたようにそれとなく近づいて来て神を否定します。
もしかしたら神は間違っているのではないかと思わせるのです。
多くの人の意見や理屈が優先され、信仰が否定されます。
戦後GHQが入り、民主化とキリスト教の働きを進める為、 カトリックには学校を造り、プロテスタントには病院を造りました。
しかし看板はキリスト教の十字架を掲げながら、 別の宗教を呼び起工式をしようとしたのです。
多くの人達の同意によるものでした。
それに対し、そういう事をするのならば十字架を下ろせと激しく抗議した一人の牧師がいました。
その結果皆は渋々キリスト教で起工式をしたというエピソードがあります。

多数派や世間の常識で訴えてくるのが、サタンの常套手段なのではないかと思います。
キリストの名のもとでキリストを現したい、キリストを伝えたいという信仰が、 いつの間にか人間の理屈や人権が優先されて差別だと言われ、 それを変だとも思わないようにサタンの欺きがまかり通るようになるのです。
信仰は形骸化し、 そのうちキリスト教の聖書学校や神学校でさえ、 洗礼を受けてない牧師が洗礼を信徒に授けるという笑えない珍事が起きても、 おかしく感じないというサタンの欺きが起きるかもしれません。
キリストを具体的に世に現すことは相当な覚悟と信仰が必要です。
もしサタンの欺きが予想されるとしたら、 神様からのみことばの知恵をいただきこれに対処しなければなりません。
私が聖書と神学を学んだ聖書神学舎は、 他の神学校が国の援助支援を受けるために学校法人をとる中、 敢えて宗教法人をとりました。
舟喜校長は学校法人ではなく宗教法人として、 そして教会の研修として、 神学生を位置づけ訓練してそれぞれの母教会に返す事にしたのです。
大きな世に知れる学校ではなく、 小さな純粋に聖書信仰に立つ聖書原語の学び舎としたのです。
私が学んでいた時にその宗教法人に立会い、 都から派遣された職員がきました。
聖書のみことばに立つことは大きくなればなるほど困難になることを舟喜校長はわかっていたのでしょう。
私はキリストのみことばに立つことが困難と予想される時、 これ以上サタンの惑わしがこないようにと予防線をはることは大切ではないかと思います。
こんにち私たちの使命は、 救い主キリストを伝えることであり、 私達は、この世にキリストを現す使命も確かに与えられています。
キリストの教会、また私達キリスト者はキリストを現していく責任があります。
世にキリストを現すことが教会の使命です。
でもイエス様が言われたようにサタンの支配が世に及んでいるので気をつけなければなりません。
教会は単なる集会所ではありません。
イエス・キリストによって救われた人々がキリストを告白し、 父の神に聖霊によって礼拝を献げキリストを崇め現すところです。
今はキリストを世に現す事が教会に求められています。
でもサタンの支配する世にどうやってキリストを現して行くのか?
私達はここでしばしば躓きます。
キリストを現しキリストの救いを伝えるべきはずの学校や病院、 施設や様々な働きが世に飲み込まれていく現実をみるのです。
個人に於いてもキリストの教会に於いても、 キリストを世に現すことが現実的に如何に困難か模索している間はまだましなのかも知れません。