^ 「旧約聖書のキリストモデル@」
「義人アベル」
 

創世記 4章

1節
人は、その妻エバを知った。
彼女はみごもってカインを産み、
「私は、主によってひとりの男子を得た。」
と言った。

2節
彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

3節
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。

4節
また、アベルは彼の羊の初子の中から、
それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。
主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。

5節
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

6節
そこで、主は、カインに仰せられた。
「なぜ、あなたは憤っているのか。
なぜ、顔を伏せているのか。

7節
あなたが正しく行なったのであれば、 受け入れられる。
ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、 罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、それを治めるべきである。」

8節
しかし、カインは弟アベルに話しかけた。
「野に行こうではないか。」
そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、
彼を殺した。

9節
主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」
と問われた。
カインは答えた。
「知りません。
私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

10節
そこで、仰せられた。
「あなたは、いったいなんということをしたのか。
聞け。
あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

11節
今や、あなたはその土地にのろわれている。
その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

12節
それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、
あなたのためにその力を生じない。
あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

13節
カインは主に申し上げた。
「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。

14節
ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、
私はあなたの御顔から隠れ、
地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。
それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

15節
主は彼に仰せられた。
「それだから、だれでもカインを殺す者は、
七倍の復讐を受ける。」
そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。





天地創造の神は、キリスト(救い主)を突然に世に送られたのではなく、 旧約聖書の中に、たびたび預言という形で伝え、人々に予告していました。
またイエス・キリストのモデル(型・予型)としてもいろいろな人を起こし、 イメージを与えてくださいました。
たとえば「義人」と言われる人と、 「正しい人」を証しとして起こされています。
義人ノア・ヨブ・ヨセフ・モーセ・ダニエル、またアブラハムの甥ロト でさえも義人と言われています。(Uペテロ2:7〜8)


ペテロの手紙 第U 2章

7節
また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。

8節
というのは、この義人たちは、彼らの間に住んでいましたが、
不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。


これらの人々は、おのおのキリストの全体像を予表し、もしくは 部分的に人格的に、またキリストの働きを示しています。
今日は贖い主キリストを予表しているアベルという人について、 イエス・キリストの働きとだぶらせながら見ていきましょう。

最初の人アダムとエバ。
この二人によって全人類が今の様に増え拡がっていきました。
二人には、最初の子カイン、次はアベルが誕生しました。
カインとアベルの年の差は分かりませんが、 二人は兄弟として仲良く遊んでいたのではないかと思います。
アダムとエバは二人を心から愛し、育てていました。
そして、この子ども達の誕生を主のめぐみの業として喜びました。(4:1)
しかし、後にアダムとエバは、自分たちが神に背いた 罪の、刈り取りをする事になるとは全く予想していませんでした。
「必ず死ぬ」という神の言葉を痛いほど、後に起こる事件で思い知らされるのです。

〈4:2〉
アベルは羊を飼う者→羊飼い
カインは土を耕す者→農業(農夫)
となったという分業化がされています。

神様は羊飼いと農夫の間に差別を設けたという事はありません。
カインとアベルは、アダムとエバから独立し、おのおのに 働きの場が与えられ暮らしていたのでしょう。
(ちなみに、聖書には二人が両親と一緒に住んでいたかどうかは明らかにしていません。)

二人は両親から教えられた通りに神様に捧げ物を携えてやってきました。(4:3〜4)
ここには礼拝の原型があります。
この時には、神を礼拝する為の場所、時期があったのです。
今日の様に毎聖日ごとにではなく、年に一度ぐらいでしょうか?
特定の礼拝の場に行って神に祈り、感謝の捧げものを捧げていたのです。

カインとアベルは、各々に神様に捧げ物を携えてきています。
二人の捧げ物は、カインが農作物、アベルは羊の子(子羊)でした。
「主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。」(4)
とあります。
ここには明らかに二人のささげ物への差別化があります。
この二人の携えてきたささげ物が主の目に叶っていたかどうかという事に ついてですが、これは職業の種類(業種)による事ではありません。
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエルT16:7)とある様に、 この二人の心の姿勢に違いがあったのです。

カインとアベルの携えたものについてですが、カインはあまり気を付けていない様に見えます。
ただ農作物の中から持って来たものだったようです。
しかし、アベルは人に対しても大切に気を使い、神に対しても その姿勢がそのまま出ています。
神へのささげものが子羊である事から、 最高の心づかいをしていた事が見てとれます。
「アベルは彼の羊の初子の中から、 それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。」(4)とあります。
アベルの心には、神様への尊敬の心、畏れる心が見てとれるのです。


へブル11:4
「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、
そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」


アベルは、心からのささげ物を携えて神のもとに行ったのです。
しかしカインには、その「心からの姿勢」がありませんでした。
カインの反応は明らかに異常です。
そして、その心が罪に支配された状態が(4:5〜7)に記されています。

彼の心は怒りから憤りになり、そしてその対象が神へとなっていきます。
神を直視出来ない状態です。
神がカインに対し、 心を改めるように迫って語られたにもかかわらず、 心の中の怒りはますます強くなっていくのです。

罪は偶然に犯しません。
心の中の罪は具体的に表に出てくるまでに多少とも 時間があります。

「あなたは、それ(罪)を治めるべきである。」(7)
心の中に充満しているどす黒い罪のかたまりを抑える事、 コントロールする事を神様はカインに命じました。
しかし、人は自分の心をコントロール出来ません。
心を自由にコントロールできるのなら、ダイエット本はいりません。
パチンコ、ギャンブルも成り立っていかないでしょう。

カインは自分の心の中の怒り(神への怒り)を、 遂に神に受け入れられた弟のアベルに対するねたみに変えました。
アベルに対するねたみは、炎のように燃え上がりました。
人は他の人の成功、幸せをなかなか素直に喜べません。
特に自分の心の中に不満や怒りがとどまっていると、 他の人を祝福出来ないという弱さを持っています。
同じ弱さ、病を持っている人同士は 「同病相あわれむ」ですが、 一方が回復してくると素直に喜べない自分が出てきます。
人は、神への悔い改めをし、砕かれる以外にないのです。

〈4:8〜10、13〉
カインは心の怒りをアベルに向け、彼を野に誘って襲いかかり、 暴力をふるいました。
それまで人の死という事を見たことのないカインでしたが、 初めて、人の体から霊が離れて動かなくなり、 息絶え冷たくなっていく様を目の当たりにしました。

「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」(13)

カインの、罪の重責に圧倒され、苦しみ押しつぶされそうな姿は書かれていますが、 アベルへの謝罪の心は全く見られません。

罪は、たとえ願いを叶えたとしても心が解放されるどころか、ますます重く 落ちていくのです。
カインは悔い改めたのでしょうか?

「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、 私はあなたの御顔から隠れ、 地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。
それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」(4:14)

神は、罪を悔いるだけで、謝罪の心悔い改めの心のないカイン にさえもあわれみ深いことばをくださいました。(4:15)
「カインのしるし」とは何かの刻印か、 または文字か等、詳しい事は不明です。
ただカインが殺されない為の何らかのしるしを与えられたのは事実です。
このカインとアベルの事件は、人類最初の殺人です。
しかも兄弟殺しという余りにも悲しい事件です。
家族同志が殺し合う事程心痛む事はないでしょう。
平和と思われた家庭を不幸のどん底が襲うのです。
アダムとエバがどれだけ悲しんだか想像にかたくないでしょう。
アダムは930年の生涯の中で、またエバもその生涯の中で、この事件を一日も忘れた事はないと思います。
この事件以降、心から笑えない二人になったのではないでしょうか。

正しい人が悪者に殺されるという一つの型が、ここに予型として示されています。
へブル11:4にあるように、義人が悪者に殺される、 正しい心の人が悪い心の人に殺されるという事がここに暗示されています。(ハバクク1:13)
完全に正しく全く罪のないイエス・キリスト。
しかし人々はそんな完全なキリストでさえも、怒り、妬み殺しました。(ルカ23:23)
イスラエルの人々がカイン、イエス・キリストがアベルです。
義人アベルの死は、キリストの死を象徴するものとなったのです。


ハバクク書 1章13節

あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、
労苦に目を留めることができないのでしょう。
なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。
悪者が自分より正しい者をのみこむとき、
なぜ黙っておられるのですか。


ルカの福音書23章23節
ところが、彼らはあくまで主張し続け、
十字架につけるよう大声で要求した。
そしてついにその声が勝った。