^ 「隠された主のことば」
「隠された主のことば」
 

ルカの福音書 18章

31節
さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。
人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。

32節
人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、 つばきをかけられます。

33節
彼らは人の子をむちで打ってから殺します。
しかし、人の子は三日目によみがえります。」

34節
しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。
彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。





〈18:31〜33〉
イエス・キリストは回りの人々が神の国運動に盛り上がる中、 それに水を差すかの様に、ご自分の受難と死と 三日後の蘇りについて語られました。
ルカの福音書において、イエス様がご自身の死と復活について 予告したのはこれで七回目でした。
(ルカ5:35、9:22、44、12:50、13:32、17:25、18:32、33)


ルカの福音書 

5章35節

しかし、やがてその時が来て、 花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」


9章

22節
そして言われた。
「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、 長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、 殺され、 そして三日目によみがえらねばならないのです。」

44節
「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。
人の子は、いまに人々の手に渡されます。」


12章50節

しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。
それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。


13章32節

イエスは言われた。
「行って、あの狐にこう言いなさい。
『よく見なさい。
わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、 三日目に全うされます。


17章25節

しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、 この時代に捨てられなければなりません。


何度も何度も繰り返し予告されたにも関わらず、 12人の弟子達は誰一人としてイエス様のことばの意味を理解 出来ませんでした。
弟子達の中には、傲慢にもイエス様をいさめたペテロの様に
「イエス様、そんな弱気になってはだめですよ。」
「そんな事が起こるはずはありません。」とかいうちくわ耳の人もいました。
ルカの福音書は、この12弟子の無理解の理由として、
「頭が悪かったからである。」とか 「心が捻じ曲がっていたからである。」とかではなく、 18:34「このことばは隠されて」いたからだと言っています。
彼らは、神のご計画や神のみこころから遠く離れたところにいたというのです。
私達は神のみこころに心が一致する心の謙遜を持っているでしょうか。

神様の為にすべてを捨てて献身してついてきた弟子達は、 家や財産を犠牲にしてきたほど熱心な信仰者であり、 イエス様をメシヤと告白する人々でありました。
しかし、なぜこれほど熱心であっても隠されていたのでしょうか。
それは、神様によって隠されていたからです。
神様への信仰と悔い改めをもって主に従ってきたし、 多くの犠牲を払ってついてきた弟子達になお足りなかったもの。
それは、本質的に大切なもので、犠牲以上のもの、 犠牲を犠牲とも思わない損得抜きの愛だったのです。

12弟子の献身は素晴らしいものです。
しかし、その献身の中身はどうだったでしょうか?
主イエスによってうちたてられる神の国、 そのみ国の中で、自分達が大きな位を与えられ、 大臣となり、み国を統治していくという野心が 各々の心の中に強く深く根付いていたのです。
野心こそ、この主イエスのことばが 隠されていた原因でした。
つまり彼らには、自分の希望・願い・期待をまず捨てて、 主にゆだねて、みことばを素直に聞く姿勢が全くなかったのです。
信仰が霊的信仰である為には、まず100%自分の願いや希望を 捨て、全てを神に委ね生きる、まかせきるという事が 不可欠なのです。
この信仰の原点に立っていない限り、主の ことばは隠されている事になります。

私達も日々、みこころを知るにあたり、心を真っ白にして主に祈りましょう。
それにはまず、主のみこころを求められる様になる為の祈りから初めていきましょう。
祈りは、私達の大願成就の手段ではなく、私達を主のみこころに近づける為の訓練でもあります。

主のみこころは、聖書に明確に記されていない事も多いので、 「これが主のみこころです」と言い切れない事が多いです。
しかし中には、スーと体の中をすき通って行く何かの確信を得られる時があります。
その確信が大切です。
自分の思いから解放され、自分がはがれていく時、その 剥がれ落ちる体験を、ルカは「目が開かれ」(ルカ24:31) と語っています。

ルカの福音書と使徒の働きを、聖霊の導きの中で 記したルカは、使徒16:14で「主は彼女の心を開いて」 と記しています。
野心に凝り固まった弟子達は、野心を捨てて 全てをからっぽにして従っていかない限り、主のみこころを知ることはできないし、 イスカリオテのユダのように世の富、財にすべてを奪われている全くの 世的な価値観を持っている目のにごった人には、イエス様のことばは 隠されて見えなくされてしまっていたのです。

更に12人弟子の心の目をくもらせ、主のことばを分からなくさせていたものは、 当時の世の常識でした。
常識は国・時代・地域などによって違います。
この国の常識は他の国の非常識、 この時代の常識は、昔は非常識、 基準もまちまちです。
当時は、メシヤ運動が盛んで、 特にB.C.1〜A.D.1世紀において、メシヤ待望熱はヒートアップしていきました。
パリサイ人、エッセネ派、熱心党の人々と、おのおののメシヤ観がありました。
イエス様の12弟子も、当時常識となっていたメシヤの王国は、 世の国を(ローマを)倒して建設されると考えていたのです。
使徒1:6で「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」 と言っています。
クムランの人々が記した 終末の書の中にも、ローマとの闘いが預言されていて、 7勝7敗の後に勝利するとあります。
今も残るパリサイ派の人々は、イスラエルの王となるメシヤを今も待っています。
当時の常識では、メシヤは王として イスラエルを再建する為にやってくるからです。
しかし、イエス様は、言われました。
「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、 つばきをかけられます。
彼らは人の子をむちで打ってから殺します。
しかし、人の子は三日目によみがえります。」(32〜33)

今の時代の常識は、時代・時間とともに過ぎ去るものであり、 みことばをみことばとしてそのまま正しく 偏見を取り除いて主のみこころを知るものでありましょう。
その時、目に隠された覆いは取り除かれて見えるようになってくるはずです。(エペソ3:14〜19)


エペソ人への手紙 3章

14節
こういうわけで、私はひざをかがめて、

15節
天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

16節
どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、 力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

17節
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に起訴を置いているあなたがたが、

18節
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、
深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

19節
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが、満たされますように。


最後に…メシヤの受難と復活は、すべての時代、すべての人々の為に 神が計画された、全人類の救済の方法だったのです。
これこそ、神のみこころでした。
今の私達には当たり前の事ですが、昔の人々には隠された事だったのです。


申命記 29章 29節

隠されていることは、私たちの神、主のものである。
しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちが このみおしえのすべてのことばを行なうためである。


今もこの言葉が生きています。
そして、私達にも知らされていない事もあるのです。