^ 「喜びに溢れた主イエス」
「喜びに溢れた主イエス」
 

ルカの福音書 10章

17節
さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。
「主よ。
あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」

18節
イエスは言われた。
「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。

19節
確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、 敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。
だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

20節
だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、 喜んではなりません。
ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

21節
ちょうどこのとき、 イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主であられる父よ。
あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、 幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。
これがみこころにかなったことでした。

22節
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。
また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた 人たちのほかは、だれも知る者がありません。」

23節
それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、 ひそかに言われた。
「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。

24節
あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを 見たいと願ったのに、見られなかったのです。
また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、 聞けなかったのです。」





あなたはイエス・キリストという方について、その実像をどのようにイメージ されているでしょうか?
また、福音書はどのように伝えているでしょうか?
私のイエス様に対するイメージは、
「十字架に向かっていく姿」
「苦闘し、人々の罪、不信仰を悲しみ、痛みを負う方」
であると共に、
「誰も立ち向かえない権威を持っておられる方」
です。
皆さんはどうでしょう。

イザヤ53章のキリストについての預言の中で、
「彼には、私たちが見とれる様な姿もなく、 輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」(2〜3節)
とあります。

つまりイエス様は、人間的に人々をひきつける御力を持った方ではなく、 逆に、人々に拒絶され、 否定される悲しみの人であったという事です。

羊や牛でなく"一人の人間"が、神と人との 仲介人として、「贖いの業をなす」という姿を幻の中で 見たイザヤには、悲しみのメシヤという姿しか 見えなかったのでしょう。
そして、確かにイエス・キリストの来られた目的・ 中心は、その贖罪の業にあったのです。

では、人々の罪を十字架で背負い、十字架で死んだ イエス・キリストは、 いつも悲しみの人だったのでしょうか。
私は、イエス様という方は、 喜怒哀楽に生きた方、 神としての権威を持っていただけでなく、 実に人間の感情も素直に表した方だと思います。

イエス様は、メシヤを拒む不信仰な人々を見て、 また神の都エルサレムのあわれな姿を遠くから見て、悲しみの涙を 流されたとあります。
ラザロの死の時、ラザロの蘇り(蘇生)を信じない人々に 憤りを覚え、また人々の不信仰に涙されました。
エルサレムの神殿では、巡礼者の人々が高額で買って、神殿でいけにえにして 捧げる牛・羊・鳩などを売っている人に、 またローマの外貨はけがれているとしてユダヤのお金に 換金して、その法外な手数料をとるシステムに怒り、 神殿の商売人のブースやかごを壊し、ムチで牛や羊を追いやった事もあります。

また、マタイ(レビ)が、自分の家を開放して、人々にイエス・キリストを 紹介し、自分がイエス様の弟子として生きていく事をあかしする為に、 多くの人々を招いた時、その人々の中には 多くの犯罪人、遊女などが自由に出入りしていました。
その人達とイエス様は楽しく飲み食いして、人々に天の御国について語られ、 またこの世の知者、エリートのみが入れるのが 天国と考えていた当時の人々の考えを正面から否定されました。

また、イエス様のエルサレムでの受難を聞いて、 ペテロがイエス様をいさめた時、
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。
あなたは神のことを思わないで、
人のことを思っている。」(マタイ16:23)
と激しく怒られました。
この様にイエス様は、公生涯の中で様々な感情をあらわしておられるのです。

〈ルカ10:17〜〉
70人の派遣について
イエス・キリストは、これから訪れる町々村々にご自身の弟子たちを二人ずつ 、ペア35組を派遣しました。
この使徒たちの派遣された目的は
「神の国があなた方に近づいた。」
という事を人々に知らせる為でした。

イエス様は、70人の使徒達全員に天的権威を与えられました。

町の病人を治す医療的行為を行うとともに、 主イエスの名を使うと、悪霊どもでさえ彼らに服従したのです。(10:17)
そこにキリストがいなくても、名前だけで悪霊が 従うという権威にこの70人は驚き、単純に喜びました。
この時、主イエスは単純に喜ぶ弟子たちの姿を見て、自分に権威・ 力が与えられた事を喜ぶのではなく、
「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(10:20)
と言われました。
何か人にはできない事が出来たから喜ぶという事ではなく、 自分たちが神との交わり、神のご支配の中に入る事が出来、 天の御国に名が記されている事をのみ喜ぶようにという事です。

最も大切な喜びは、自分の名前がみ国のいのちの書に 記されている事なのです。

「私たちの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20)

イエス様は素直に喜んでいる70人の弟子達の姿を見て、 聖霊によって喜びに溢れて、天を仰いで祈り始められました。
「天地の主であられる父よ。
あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。
これがみこころにかなったことでした。」(10:21)

いつの時代でも、
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、 救いを受ける私たちには、神の力です。」
「神はみこころによって、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を 救おうと定められたのです。」
(Tコリント1:18、21)

神は、
「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、 強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1:27)
「この世の取るに足りない者や見下されれている者を、神は選ばれました。
すなわち、有るものをない者のようにするため、 無に等しいものを選ばれたのです。」(1:28)

更にイエス様は、弟子たちの方を向いて言われました。
(10:23〜24)
旧約聖書時代には、 直接神のみことばを聞いた人々もいました。
しかし、ほとんどの人は、 みことばを聞き読み、また人伝いに聞いて 神様のみこころを知りました。
しかし、今ここにいる人々は、神ご自身から 直接みことばを聞けたのです。
弟子たちにとって、最も幸いな事でした。
ヨハネは言っています。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:14)
「いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)

私達も、何か大きな事や、働きができる事以上に、 名が天に記されている事を喜びましょう。
単純に、素直な信仰を見て、 今も主イエスは喜んでくださっているのです。