^ 「信仰〜感動と感謝〜」
「信仰〜感動と感謝〜」
 

ルカの福音書 17章

11節
そのころイエスはエルサレムに上られる途中、
サマリヤとガリラヤの境を通られた。

12節
ある村にはいると、十人のらい病(第三版よりツァラアト)人が イエスに出会った。
彼らは遠く離れた所に立って、

13節
声を張り上げて、
「イエスさま、先生。 どうぞあわれんでください。」と言った。

14節
イエスはこれを見て、言われた。
「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」
彼らは行く途中でいやされた。

15節
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、
大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

16節
イエスの足もとに ひれ伏して感謝した。
彼はサマリヤ人であった。

17節
そこでイエスは言われた。
「十人いやされたのではないか。
九人はどこにいるのか。

18節
神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

19節
それからその人に言われた。
「立ち上がって、行きなさい。
あなたの信仰が、あなたを直したのです。」





前回はルカの福音書17章1節〜10節「信仰のハカリ」 をみました。
今日は、イエス・キリストの公生涯の働きの一コマですが、 10人のツァラアトに冒された人々の話しを見ていきましょう。

〈17:11〜13〉
ルカの福音書は、ルカ9:51を分岐点として大きく2つ(前・後) に分けられます。

イエス・キリストは十字架にかかる為、顔をまっすぐにエルサレムに向けられ、 サマリヤからエルサレムを目指されました。
そして、サマリヤと北のガリラヤとの間を通っていかれた時の一つのエピソードが ルカの福音書のみに記されています。

ツァラアトに冒された人々が隔離されている町外れを、 イエス様の一行は通っていきました。
ツァラアト(重い皮膚病)は菌によって、人から人に伝染していく病で、 レビ記13:44〜46にも記されている病です。
このイスラエル地域特有の風土病のようなものだったのかもしれません。


レビ記 13章

44節
その者はらい病(第三版以降ツァラアト)人であって汚れている。
祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。
その患部が頭にあるからである。

45節
患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、
その髪の毛を乱し、
その口ひげをおおって、
『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。

46節
その患部が彼にある間中、
彼は汚れている。
彼は汚れているので、
ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。



レビ記13:45には、「汚れている。」と叫ぶ事が命じられています。
ここの10人の人々も、隔離されている所(遠く)から大声で叫んでいたのですが、 ここでは「汚れた者です」という叫びではなく「イエスさま、先生、どうぞあわれんでください。」 と叫んでいたのです。
この人々は、ナザレのイエスのうわさ(病の人や、体の不自由な人を癒した) を人づてに聞いていたのでしょう。
それで、イエス様に望みを抱いていたのでしょう。
いつかきっとここを通って、自分達を癒してくれる、と。

そしてその時がやってきたのです。
この10人の男達は必死でした。
ありったけの声でイエス様に向かって何度も叫んだのです。

イエス様は、この人々の叫びを聞いて、一言「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と 言われただけでした。
近くに来て、この10人の男達に言葉をかけられたのでもなく、手で触られたり、 手をかざされたのでもなく、癒しを祈ったりしたのでもありません。
ただ「祭司に見せなさい。」と言われたのです。

イスラエルでは当時、祭司が病の癒しの判定する権威が与えられていました。
祭司に、癒されたと判定されると、社会復帰が出来、 家族のもとに帰る事が出来たのです。
イエス様はこの旧約聖書のレビ記に記されているルールに従って 「自分を祭司に見せなさい。」と言われたのです。

10人の男達は、その言葉の通りに祭司のところに上って行ったのですが、 その途中で病が癒された事に気付きました。(17:14)

さて、この10人の男達の事について、聖書は全員癒されたことを記していますが、 その事実は、一人の引き返してきたサマリヤ人の証言に基づいていると思われます。

そして、この10人全員が癒された後の、その後の行動が大切です。
多分9人は、社会復帰(共同体に戻れる)が出来る嬉しさと希望を持って祭司の 所に行ったのでしょう。
自分の生活、自分の人生に光が差し込んだ事を喜んだでしょう。

癒し主のイエス様への感謝の心がなかった訳ではないにしても、とにかく 自分が癒された事が嬉しかったのでしょう。
イエス様への感謝の心が第一にあったのなら、 ガリラヤ、サマリヤを後にして去っていくイエス様の所にまずお礼を言いに 行くものです。
祭司の所へは、いつでも行く事が出来ましたから・・・。(祭司はその地区その地区にいます。)

今日、日本においても、様々な問題を抱えて教会にやってくる人が多いです。
そして、自分の悩み、問題がなくなると教会を去っていく事も多いです。
極めて、ご利益的です。

祭司からはいつでも社会復帰の判定が受けられるので、 この一人の人は、去っていくイエス様のもとに 再び戻ってきて感謝しています。(17:15〜16)
この人はサマリヤ人だったと言っていますが、 実に最大限の感謝をしていて、日本人にとっては実にオーバーと 感じる程です。

16節「イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」

イエス様の両足に顔をくっつけて伏し拝んだラザロの姉妹も 同様にして、ラザロを生き返らせてもらった感謝を表しました。
このサマリヤ人も、自分に出来る最大限の感謝の気持ちを表したのです。
イエス様は、この好意を快く受け入れられた事でしょう。
これはサマリヤ人とユダヤ人の不仲、犬猿の仲だった事への愛の証しを 表すものですが、イエス様には気になる事がありました。
それは、他の9人の癒された男達の事です。(17:17〜18)

10人の男達のうち、9人が神の選びの民を自負しているユダヤ人、 1人がサマリヤ人でした。
この人々は同じツァラアトに冒されていて 同じ隔離生活をしていたのですが、 ユダヤ人9人のうち、誰一人として感謝 の心を表した人はいなかったのです。
信仰の民と言いながら、 具体的な信仰の実である感謝の心が無かったのです。
こういう人は、社会に復帰し、共同体の中に入っていっても 世の光、地の塩をして良き証しが出来るかとても疑問です。

一方癒されたサマリヤ人は、この9人とは全く別のリアクションです。
ルカは、"本当の神の民"とはどんな人なのか、という一つの信仰者のあり方を ここで私達に問うているのです。
そしてそれは、ユダヤ人が、最も不信仰で呪われているとさえ思っていた サマリヤ人の中にあった事を示しています。
キリストの福音は、貧しい人、愚かな人、汚れていると 忌み嫌われた遊女、取税人、罪人の中に浸透していきました。
ルカは、この後も取税人ザアカイの回心や、 「こんな罪人の私をお赦しください」と祈った 取税人の祈りが神に受け入れられた事を強調していて、キリストの福音に ふさわしい心、信仰の心について真のあり方を示しています。

〈17:19〉
「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」 と足元にひれ伏して感謝したサマリヤ人に、イエス様は声をかけられました。
「直した」「癒した」と訳すると、この人の 信仰の力、信仰力が強く働いて自分を癒したかに 取られてしまいますが、 原文では、「直した」「癒した」という言葉ではなく、救うの完了形、 「救ったのです」とあります。
つまり、「あなたの信仰があなたを救った」と、なります。

このサマリヤ人の、イエス様の言葉を信じて行動した事、 ただ従っていった事、 それがこの人を救ったのです。
そしてイエス様の言葉は、この人の神への信仰の復帰回復をも意味する 言葉だったのです。

このサマリヤ人のみ、 神に栄光を帰して健全な心、健康な心に なったのです。

「あなたの信仰があなたを直した(救った)」

全人格的救いこそ、イエス・キリストが願った救いです。
私達も、この様な救いこそが真の救いであり、 キリスト教の本質であるという事を知る事が大切です。

〈17:15〜16、19〉
この人の体験したツァラアトの癒し。
心に湧き上がる主イエス様への感謝と癒された感動。
この感動と感謝こそ、信仰の原動力となる大切なモチベーション、 動力、動機となっていくのです。
何でも当たり前と思うことの多い日々です。
感動の心の大切さ、感謝の心を持つ事の大切さを 今一度、私達は日に一度はチェックし、 神の恵みで生かされている者である事を知る者でありたいですね。



テサロニケ人への手紙 第T 5章 18節

すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


エペソ人への手紙 5章

19節
詩と賛美と霊の歌とをもって、 互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。

20節
いつでも、すべてのことについて、 私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。