^ わたしの神殿建築
「わたしの神殿建築」
 

コリント人への手紙 第T 3章

10節
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。
そして、ほかの人がその上に家を建てています。
しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。

11節
というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を 据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。

12節
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀 、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、

13節
各人の働きは明瞭になります。
その日がそれを明らかにするのです。
というのは、その日は火とともに現われ、この日がその力で各人の働きの真価をためすからです。

14節
もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

15節
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、 自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

16節
あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

17節
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。
神の神殿は聖なるものだからです。
あなたがたがその神殿です。

18節
だれも自分を欺いてはいけません。
もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、 知者になるためには愚かになりなさい。

19節
なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。
こう書いてあります。
「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」

20節
また、次のようにも書いてあります。
「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

21節
ですから、だれも人間を誇ってはいけません。
すべては、あなたがたのものです。

22節
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、 未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。

23節
そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。





パウロはコリントという町に行って、キリストの福音を述べ伝えた事が 使徒18:1〜に記録されています。


使徒の働き 18章1節

その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。


パウロはそこでテトスと会い、 会堂管理者クリスポアファミリーに洗礼を授け、 また多くのコリント人がキリストを信じてクリスチャンになりました。
パウロは1年半コリントで伝道し、教会を作り、牧会しました。
その後、一連の騒動が起こり、パウロはコリントを去ります。
そして、エペソで知り合った、旧約聖書に通じた雄弁な元律法学者のアポロをコリントに遣わしたのです。

コリントの教会は、未熟で何かと問題がありましたが、 特に教会を混乱させ、分解させる問題は、分派(派閥)という深刻なものでした。
コリントの教会は非常に人間的な教会で、ギリシャ哲学の影響もあったでしょう。
アポロ派、キリスト派、ペテロ派など、教会の中で分裂していて、 決して放ってはおけない状況でした。
パウロは急遽、コリントに手紙を書く必要を覚えて、筆を取ります。
その手紙は非常に厳しい口調で書かれています。(3:16等)

コリントの教会では、 この世の価値観が持ち込まれてしまっていました。
これは現代の教会にも言える事です。
この世で成功していると思われている人、お金持ち、社会的地位の高い人、 声の大きい人、個性の強い人等が教会で幅をきかせているのが多くの教会の現状です。
パウロはそれに大してはっきりと言います。

〈3:18〜23〉
自分を中心に考えてはいけない。
つまりパウロもアポロもペテロも世界も死も命 も現在も未来も神が私達に与えられたものです。
キリストを信じる者はキリストのものであり、また本当の 神のものなのです。
パウロもペテロもアポロも、神がコリントの教会を たて上げる為に用いられた人にしか過ぎないのです。
そして、コリントの人達、 その一人ひとりが神であるキリストを土台とした神殿であるという事なのです。(3:18)

今日もそうですが、キリスト者の人生の、また生活の土台はイエス・キリストなのです。
つまり、キリストを中心に考え、計画し、その土台の上に、 自分の人生、生活の家を作り上げていかねばなりません。
この土台であるイエス・キリストは絶対であり、堅固なものです。
もし躓いたり、揺らいだりしたのなら、 それは私達の建て方が悪いのです。
基礎、基盤はびくともしないものなのです。

〈3:10〜11〉
パウロはコリントの教会の土台(イエス・キリスト)を据えたしもべ、 アポロはコリントの教会という木に水を注いだしもべです。
しかし、どの様な家を建てるのかは各々の自己責任で決めねばなりません。
キリスト者は、イエス・キリストという土台の上に様々な材質の家を建てます。
金・銀・宝石・木・草・藁などです。
そして、各々の人の働きは"その日"明らかにされます。
その明らかにされる材質は、本人や人の評価でなく、 イエス・キリストの評価によります。
キリストが私達の家の材質の評価を決定するという事です。
30万人の教会を建てあげた人が 3人の教会を牧会した人に劣った評価になる事もありえます。
何百・何千人という人をキリスト教会に導いたからといって、 1人のキリスト者の為に祈った人、捧げた人より、 キリストの評価が高いとは限りません。

パウロの語る、各人が気をつけるべき神殿建築は、大きく分けて二つあります。
イエス・キリストを土台とした基礎に、 金・銀・尊い石(宝石)で建てた場合は恒久的な建物であり、価値のある建物になります。
一方、木・草・藁で建てた建物は、火によって消失してしまう無価値なものになります。
何も残らないこの無価値な建物とは、イエス・キリストについて

・神としての権威を軽んじる。
・永遠の真理・道・いのちの源であることを信じない。
 また、限定したり、いい加減な信じ方をしている
・クリスチャン、キリスト者であるといいながら、
 偶像礼拝、様々な因習から離れない。
・意識、無意識によらず、福音をそのまま信じず疑い、
 キリストを引き降ろす(3:13〜14、15)

こういう人々は草・木・藁の建物なのです。
この人々は、キリストの日に、神のさばきの火に全身焼かれながらも、何とか救われます。
彼らは、この様に全身が焼かれ、消失したとしても それでも幸いな人といえます。

パウロは、コリントの第二の手紙の中で次の様に言っています。


〈Uコリント5:10〉
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ
悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」


ヨハネの黙示録 20章

4節
また私は、多くの座を見た。
彼らはその上にすわった。
そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。
また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、 獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。
彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

5節
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。
これが第一の復活である。

6節
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。
この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに千年の間王となる。


キリストのさばきの座について、Uコリントの手紙の中でパウロは言及しています。
このキリストのさばきの座は、永遠の滅びへのさばきではなく、 キリストがキリスト者に報いを 与えるさばきの座なのです。
金・銀等が残った人は、天国での恵みも多く、 逆に草・木・藁等の人は天国での恵みがないという事です。
天国へ入れることそのものが恵みですが、 天国の人々にも幸いの感じ方に大きな違いがあるのです。
パウロはアドバイスをしています。

キリストにあって、愚かになれ。(3:18〜19)

イエス・キリストを信じる信仰において、世の中の人がどう評価しようと、 キリスト狂になれという事です。
つまり、キリストの為に世の光、地の塩として、 生活、人生そのものがキリストを中心に据えて生きるという事です。
人は自分中心に考え、損得・益・不利益を勘定します。
しかし、イエス・キリストは全く自分の利益を考えず、人に仕え、 捧げ与え尽くした方です。
大きな働きをする事が必ずしも良い事ではありません。
人も自分も欺かないという事が大切です。

ここでパウロが言及しているのは、あくまで、キリストのさばきの座に立たされる人の事です。
本当にぞっとする光景です。
全てのキリストを信じないで生きた人々のさばき「白い御座のさばき」とは全く違うものです。
白い御座のさばきは、永遠の滅びへのさばきです。
何と多くの人がこの白い御座の前に立つことでしょう。
その様なキリストのさばきの座が待っている私達なので、パウロは語気を強めて 言います。(3:16〜17)
とても強い言い方です。

日本語の「神殿」と訳されているものが、言語には二つあります。
一つは、神殿全体を現すことばで「ヘロデの神殿」などに使われている言葉です。(マタイ24:1)
もう一つは至聖所という言葉です。
このTコリント3:16〜17の神殿は、至聖所の意味をもつ方の「神殿」です。
イエス・キリストもヨハネ2:19(マタイ26:61)でこの言葉を使われます。


ヨハネの福音書 2章 19節

イエスは彼らに答えて言われた。
「この神殿をこわしてみなさい。
わたしは、三日でそれを建てよう。」


マタイの福音書 26章 61節

言った。
「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」


「この神殿(至聖所」を壊してみなさい。私はこの至聖所を三日で建てよう。

これは、イエス・キリストの死と復活を通して、 神との交わりの道が開かれる事を意味して言われた事ですが、 ここで同じ意味の言葉が使われています。
この「神殿」という言葉は、大祭司が年にたった一回しか 入ってはいけない神聖な場所という意味の言葉なのです。

ですから、私達は"至聖所"という事です。
私達はキリストを土台として建てられた神の至聖所であり、 劣(いや)しい生き方、 汚れた生き方を放棄して、 悪い罪から遠ざかって自分の神殿建築を続けていくべきなのです。
3:12〜13、18を心に留めたいですね。