^ イエス・キリストに出会った人々 25
「マルタとマリヤ」
 

ルカの福音書 10章

38節
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで 家にお迎えした。

39節
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

40節
ところが、マルタは、 いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、 何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

41節
主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。
あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

42節
しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません。」




今日は、ラザロの復活で有名なマルタとマリヤの二人の姉妹を みていきましょう。

〈ルカ 10:38〜39〉
"ある村"とは、別の福音書でも触れているベタニヤ村の事で、 エルサレムに近い村です。
イエス様と弟子達は、よくこのマルタの家に泊まられたようです。
イエス様一行を泊められた家という事で大きな家だったのでしょう。
妹マリヤにしても、300デナリの高級な香油(およそ200万円以上)を主イエス を接待する為にのみ惜しげもなく感謝の思いで捧げたという事もありますが、 300デナリの香油を持っていたという事も驚きです。
大変裕福な家庭だったのではないかと思われます。
彼らは、イエス様と深いつながりがあった3兄姉でした。

マルタ・マリヤの2人の姉妹は、大変対照的な感じがします。
マルタは姉として家庭をきりもりしていたようですが、マリヤはいつも座っている イメージです。
活動的なマルタと物静かなマリヤ。
私達はこの2人の姿から、いろいろと考えさせられるのです。
特に奉仕という事、神(主)に仕えるとはどんなことかという事を教えられます。

〈40〜42節〉
マルタとマリヤの2人は、全く好対照ですが、2人とも 主イエスとその一行を喜んで迎えた事は間違いありません。
イエス様が来られる事を心待ちにしていた事でしょう。

マリヤが接待しなかった、もしくは手伝いをしていなかったかのように見えますが、 マリヤは買い物をしていたかもしれません。
つまり、詳細な状況が分からないのです。
ここで重要な事は、マルタの奉仕の姿勢です。
10:41では、いろいろな心配をして気を遣っている事が分かります。

マルタは、もともとはイエス様一行を喜んで迎えたのですが、 次第にそれは焦りに変わっていきました。
そして、妹への不満がついに噴出したのです。
妹マリヤに直接言えば良いのですが、心が分裂していたマルタはお客様の イエス様に不満をぶつけています。
イエス様から言って貰うと、マリヤは従うと思ったのでしょうか。
マルタは接待する側と、接待を受ける側というボーダーを越えて イエス様にクレームを言っているのです。
イエス様一行にすれば、マルタの家に来て良かったのかと思うでしょう。

イエス様は、マルタのそんな状況の根本的な問題を見抜いて、 奉仕のあり方について、大切な事について語られます。
このマルタの問題は、今日においても、奉仕とは礼拝とは何 なのかという事を教えてくれます。
いくつかのポイントで見ていくと

1)奉仕とは、喜びの心が大切(詩篇100:1)
礼拝に来る事も、礼拝を捧げる事も、奉仕です。
教会の様々な働きも奉仕の一つです。
愛餐もその一つです。


詩篇 100篇 1節

全地よ。
主に向かって喜びの声をあげよ。


しかし、時に喜びが苦痛になる事があります。
面倒になる事もあります。
マルタの心は最初は迎える喜びがあったのでしょうが、時と共に 失われ、苦痛へと変化していったのです。
私達はこの点で弱いのです。
人は変わりやすいもので、礼拝にしても、教会の奉仕にしても、愛餐にしても、 この喜びが失われる時、 信仰の原点にかえる事が出来ないなら、やめた方がいいのです。

マルタはマリヤを見て非難したのですが、マルタは自分がなすべき事を 果たしているだけで良かったのです。
自発的、自立的奉仕が大切です。


2)イエス様は、どういう形であれ、みことばによって神に仕える事の大切さを言われました。
決して、 食事や接待が重要ではないという事を言われたのではありません。
奉仕の根本はどんな形であれ、みことばに聞く事、 主に仕えているという意識が大切であるという事を言われたのです。

マルタの態度は心の分裂という事以上に、 神への意識が全く飛んでいってしまっているという事なのです。
そして、これは例えると、礼拝に来ないのに 教会の他の奉仕、音楽の奉仕、食事の奉仕、トラクトを配る奉仕などに 加わって奉仕していると思っている事と同じです。
今日でも多くの人が奉仕と思い、神と教会に仕えているといっても 本当の意味で奉仕ではない事も多いのです。

このイエス様のことばの意味を十分に理解する必要があります。
マリヤは、一心にみことばに心を向けて聞いていました。
一方マルタは形だけの奉仕になり、しかもイエス様にさえクレームを入れています。
そこに大きな問題があったのです。


3)奉仕にはいろいろな形があり、それで良いという事なのです。
マルタは溺れそうな心で働いていますが、 給仕という奉仕をしながらも、主イエスのみことばに耳を傾ける事が出来たはずです。
主イエスの膝元でみことばに聞き入っているマリヤを見て、 共に感謝の心になれたはずです。
たとえマルタが聞こえなくても、マリヤが聞いていたことを喜び、「後で教えてね」と 言えたのです。
マルタは大きな心でマリヤの事を見るべきでした。

マルタ・マリヤの事から、イエス様の大切な教えがここで引き出されました。

〈42〉
のみことばは、今日、私達の日常生活においても全て当てはまるのです。
私達は教会にいても教会を離れていても、 みことばに仕え、主に仕えている事実はかわりません。
家事も仕事をしていてもどんな時にも、主に仕える心は大切です。
ここにこそクリスチャンの一貫した姿勢が求められていくのです。
神に仕え、人に仕える心こそが大切です。
その心があると、不正・悪に手を染める事もなくなり、道徳的、倫理的にも正しい歩みが出来るのです。
マルタ・マリヤ・ラザロがその後どのような歩みをするのは不明ですが、 使徒1:14の中にいる事は間違いありません。
今日ラザロの墓があるとも聞きます。
エルサレムでこの3きょうだいは、主に仕え人生を全うしたのでしょうが、 ルカを通して全世界の人々に知られるとは、本人達は思ってもみなかった事でしょう。

使徒の働き 1章 14節

この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、
およびイエスの兄弟たちとともに、
みな心を合わせ、祈りに専念していた。