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ルカの福音書 2章
33節
父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
34節
また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、
また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35節
剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。
それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
36節
また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。
この人は非常に年をとっていた。
処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、
37節
その後やもめになり、八十四歳になっていた。
そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。
38節
ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、
そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、
この幼子のことを語った。
シメオンとハンナという預言者として賜物を持った人に、
マリヤ・ヨセフは会います。(2:25〜27)
シメオンは、幼子イエスは人々に多大な影響を与える人となる事を語ります。
ルカの福音書 2章
25節
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。
この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを
待ち望んでいた。
聖霊が彼の上にとどまっておられた。
26節
また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
27節
彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、
その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
<2:34>
シメオンの預言は、神の直接啓示によって示された非常に重要な神のみこころでした。
代々、ユダヤ教の中では、光と闇、光の子と暗闇の子、
正しい人と悪者というものが大きなテーマとして流れていたのですが、
シメオンはこの幼子イエスによって、
二つの道が生じてくるという事を語っているのです。
幼子は、多くの人が倒れ、もしくは立ち上がる事の"しるし"となると言うのです。
<ヨハネ3:36>
人々は、御子を信じる者と信じない者の二つに分類されます。
シメオンは更にショッキングな事をマリヤに告げます。
ヨハネの福音書 3章 36節
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、
御子に聞き従わない者は、
いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
<2:35>
鋭い剣が、心臓をも一突きにして刺し貫くという預言です。
シメオンはどこからの情報でこの事を語ったのかは分かりませんが、
多くの人々がメシヤは王であり、永遠に死を見る事がないと考えていました。
彼は、当時の人々の考え方を根底から覆すメシヤ観を持っていたのです。
イザヤ53章の苦難の僕としてのメシヤについて、
羊や牛によってではなく、人間によって
罪の赦しと贖いがなされる事を、シメオンは知らされていたのでしょう。
このシメオンの言葉からは「十字架」については見てとれませんが、
シメオンは、幼子イエスが何らかの形で地上から取られることを感じていたのでしょう。
多くのユダヤの律法学者、祭司、パリサイ派、エッセネ派の人々にとって、
このイザヤ53章は意味不明でスクリーンがかかっていたのでしょうが
シメオンにとっては、主の若枝(53:2)の預言は大きく浮き上がっていた
みことばだったのです。
イザヤ書 53章 2節
彼は主の前に若枝のように芽生え、
砂漠の地から出る根のように育った。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
シメオンは、メシヤの死で起きる、母マリヤの母としての悲しみ、痛みを知り、
あらかじめ語ったのです。
当時マリヤにとっては、全く意味不明の事でしたが、33年後主の十字架の元に立って、このシメオン
の語った事の意味を理解する事となりました。
しかし、このメシヤの死は決して意味のないものではなく、多くの人を二つに分ける
人類にとって最も重要なものなのです。
十字架の死によって示された神の愛、これを受け入れるか拒むか、
人類にはこの二つの道しかありません。
中間はないのです。
このメシヤによって、羊と山羊、天国と地獄、永遠のいのちと永遠の滅びが定められる事になるのです。
マタイ16:15「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」とイエス様は弟子達に尋ねられました。
シモン・ペテロは即座に答えます。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
マタイの福音書 25章 46節
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、
正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」
永遠の刑罰と永遠のいのち。
私達はキリストによって永遠の行き先が定められている事を、聖書によって教えられ、これが
真実である事を知っています。
人の永遠の行き先を教会が左右するかのように教えているところもありますが、
聖書は明らかに、キリストを自分の人生、生活でどのように
受け止めていったかによるといっています。(ヨハネ14:6、使徒4:12)
ヨハネの福音書 14章 6節
イエスは彼に言われた。
「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。
わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
使徒の働き 4章 12節
この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが
救われるべき名としては、
どのような名も、人間に与えられていないからです。」
イエス・キリストとどの様に関わって生きているかが
とても重要なポイントです。
2000年前も今日も「あなたは私の事をどう思いますか?」という事なのです。
多くの人は、永遠に今の時が続く、永遠に生きられるように思って、
死に目をつぶっています。
しかし、現実に私達はほぼ間違いなく100%死を迎えるのです。
「キリストにあって、死ぬ者、召される者は幸いです。」
さて、エルサレム神殿には、シメオンと共に一人の女性の
預言者がいました。
名はアンナ(ハンナ)で、
この女性は相当の高齢で、アシェル(アセル)族でした。
(ヤコブの妻レアの女奴隷の子、ガドとアシェル)(創世記30:13)
アシェル族は、ヨシュアの時代、イスラエルの北西に土地を与えられました。
そこには有名なツロの港があり、
イエス様の時代では異邦人の地フェニキアとなっていました。
創世記 30章 13節
レアは、「なんとしあわせなこと。
女たちは、私をしあわせ者と呼ぶでしょう。」
と言って、その子をアシェルと名づけた。
このハンナという女性は、84歳という事なのか、もしくは結婚して
5年間夫と共にいて、その後84年間一人だったのか分かりません。
後者だとすると、およそ100歳を越えている可能性が高いです。
この人は、宮にいていつも断食をして祈っていました。
そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々に、
この幼子の事を語ったのです。
実に、もしこの女性が100歳以上だとすると、紀元前の1世紀に
起こったエルサレムの様々な混乱をずっと見てきた貴重な生き証人でした。
シメオンと共に、このハンナも幼子イエスに出会い、やっと
エルサレムに救いの光が訪れた事を知るのです。
老シメオン、老ハンナは、人々に希望を語る者でした。
私達も、いつか老人になります。
どのように年をとって、どのような老人になるかは分かりません。
しかし、信仰が心にしみこんでいれば、
この二人のように、人々に主イエスの希望を語る事が出来るのです。
皆さんも、この二人を目指して、
人々にキリストと希望を伝える者になれるように生きましょう。