^ イエス・キリストに出会った人々S
「スロ・フェニキアの女」
 

マルコの福音書 7章

24節
イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。
家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。

25節
汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、
イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、
その足もとにひれ伏した。

26節
この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。
そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。

27節
するとイエスは言われた。
「まず子どもたちに満腹させなければなりません。
子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

28節
しかし、女は答えて言った。
「主よ。そのとおりです。
でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

29節
そこでイエスは言われた。
「そうまで言うのですか。
それなら家にお帰りなさい。
悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

30節
女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。



さて、イエス様に会った人々の中で、女性を取り上げる事はあまりなかったのですが、 今日はその信仰をイエス様に褒められた一人の女性を見ていきます。

イエス様は、ユダヤ人の中で、その指導者達に強く語ってその信仰の姿勢を非難されたので、 衝突は避けられない状況になりました。
マタイ15:21では、「イエスはそこを去って、ツロとシドンの 地方に立ちのかれた。」とあります。
まだその時期ではなかったので、ご自分から身を引かれたのです。
ユダヤから見ると、外国であるツロ・シドンというフェニキアの古い港町に行かれたのです。
この古い港町は、数千年の歴史のあるもので、フェニキア人はこの港から航海をして、 地中海地方の町々に行っていました。
また、もっと先のジブラルタル海峡を越えて 大西洋や北南アメリカ大陸にまで達していたかもしれません。
コロンブスが1492年、西インド諸島に達する遥か前に、この人々は達していたかもしれないのです。 先住民となっていたことも十分考えられます。

ガリラヤとユダヤで活動されたイエス様が唯一 外国へ出かけられたのがスロ・フェニキア(ツロ・シドン)地方です。
当時、アラム語が今の英語の様に世界共通語だったので、 言葉の壁もなく話すことが出来ました。
ちなみにガリラヤ〜ツロ・シドン辺りまでの距離は、直線距離で約60〜70kmです。
山々がこの二つを分ける様に遮っているので、実際は80km〜しかも山越えでいくので、 片道一週間程かかったかもしれません。
フェニキアにやってきても、イエス・キリストの名前はよく知られていて、どこに行っても 隠れている事は出来ませんでした。(マルコ7:24)
イエス様を一目見たい、その語る言葉を聞きたいと多くの人々が詰め掛けたのです。

イエス様は、この町で一人のカナン人の女の人と出会いました。
この女性はギリシャ人で、スロ・フェニキアの生まれであったとの情報もつかめています。
後にクリスチャンになった人だったのでしょう。
彼女がイエス様の元に来たのは、娘の事で問題を抱えていたからでした。

〈7:25〉
悪霊に憑かれた人の行動は予想がつかず、聖書の中では、昼夜叫んだり、自傷行為に走ったり、暴れたり、 火や水の中に飛び込もうとしたり、 とにかくロープで柱にくくりつけておくしかありませんでした。
単なる心の病では説明できない、自己破壊型の人なのです。
このカナン人(ギリシャ人)の女性は、母親としてなすすべもなく、毎日 とても困っていたのでしょう。

〈マルコ7:25〜26〉
この女性はイエス様の足元にひれ伏して、自分の 娘を癒してくださる様に、イエス様に願い続けたのです。
マタイ15:22〜23では、イエス様に「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください」と言って 行くところどころについて行きました。
しつこく叫び続けた点は、盲人バルテマイと同じです。


マタイの福音書 15章

22節
すると、その地方のカナン人の女が出て来て、 叫び声をあげて言った。
「主よ。ダビデの子よ。
私をあわれんでください。
娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

23節
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。
そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。
叫びながらあとについて来るのです。」
と言ってイエスに願った。


イエス様は、この外国人の女性に一言も答えず無視されました。
しかし、あまりにもしつこいので、 一種の謎かけをして、この女性の信仰をみました。(マルコ7:27) イエス様は、本当の信仰を求めたのです。
ご自分への本当の信頼、純粋に信じる心です。
イエス様は、多くの人を癒されましたが、 イエス様に感謝した人は意外に少なかった事が、ルカの ツァラトに冒された人々のところから分かります。
10人の癒された人のうち、イエス様に感謝して着いていったのはたった1人です。

〈マルコ7:27〉
イエス様は、このカナン人の女性がどれ程イエス様に信頼し、信仰 の心を持っているか、謎かけをして確かめたのです。
イエス様のこの謎々には、弟子達でさえ「何を言っているのか分からない。」
と思いました。
しかしこの女の人は、すぐにその意味が分かったのです。
彼女には、娘への愛があり、イエス様に治して欲しいと願う強い心がありました。
そして、もう一つ大切な物を持っていたのです。
それは、本当に謙虚な心でした。

27節のイエス様の語られた言葉の中にある「こども」とは、神の民ユダヤの人々の事です。
イエス様は、神様の選んだ民に遣わされ、ユダヤ人に福音を伝える事が第一の使命でした。
「パン」とは、神様の約束された救いの祝福の事です。
また、みことばでもあります。
「子犬」とは、ユダヤ人以外の異邦人の事です。
ユダヤ人は異邦人を「犬」と呼んでいて、 軽蔑していました。
子犬とは犬を和らげた言い方です。

イエス・キリストはユダヤ人として生まれ、ユダヤの人々にみことばを語る為に来られました。
「まずユダヤ人から」というのは大原則で、一世紀のクリスチャン達、 ペテロ・ヨハネ・パウロ達も、まずユダヤの会堂、ユダヤ人の祈り場で イエス様の事を伝えたのです。

この大原則は、神様の設けた救いの順序です。
その理由はユダヤの人々がずっと受け継いできたみことば・旧約聖書の土台の上に 信仰を築いていくことがあるからです。
旧約聖書があって、それを土台として新約聖書があるという原則は、今日も 生きているのです。
新約聖書は旧約聖書を土台にして理解し、解釈していくのです。

〈7:28〉
この女性は、愛するこども(娘)を思うその心のゆえに、 イエス様の謎々の意味をすぐに理解し、満点の答えを言います。
しかも「主よ。その通りです。」と素直に謙虚に受け入れています。
これは、神の民とおごり高ぶっていたユダヤ人とは全く異なる、立派な信仰です。

普通、自分にとって都合の悪いことは受け入れ難いものです。
すぐに「もう頼まない」という事になりがちです。
この女の人は、この世の学問をどのくらい受けていたのかは分かりませんが、 霊的知能指数は高いです。
イエス様の言葉の意味をすぐに理解し、即答えています。
他の誰も理解できなかった主イエスの言葉を見事に理解し、答えているのです。
霊的理解力、洞察力があったのです。
聖書を何年読んでも、霊的理解力の乏しい人は霊的成長 をしません。

〈7:29〉 マタイ15:28
新約聖書の福音書の中で、 その信仰深さを褒められた人は、百人隊長と今回見てきたカナン人の女性のみです。
共にユダヤ人から見ると異邦人です。
この二人に共通するのは愛でした。
百人隊長は病の苦しみの中にいる部下への愛、 カナン人の女性は娘への愛です。
深い愛を土台とした、主イエスへの信仰は褒められるのです。
今日も、親への愛、兄弟姉妹への愛、友への愛、 そういう愛は、主によって相手の最善を求めるのであれば、神に褒められるものなのです。
このカナン人の女性のように。
(コリントT 2:12〜14)

コリント人への手紙 T 2章

12節
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、 神の御霊を受けました。
それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。

13節
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に 教えられたことばを用います。
その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

14節
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。
それらは彼には愚かなことだからです。
また、それを悟ることができません。
なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。