「荒野で呼ばれる者の声」
 

マタイの福音書 3章


5説
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々が ヨハネのところへ出て行き、

6説
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

7説
しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、 ヨハネは彼らに言った。
「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。

8説
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

9説
『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。
あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を 起こすことがおできになるのです。

10説
斧もすでに木の根元に置かれています。
だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

11説
私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、 私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。
私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

12説
手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。
麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

13説
さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、 ヨハネのところに来られた。

14説
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。
「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、 私のところにおいでになるのですか。」

15説
ところが、イエスは答えて言われた。
「今はそうさせてもらいたい。
このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」
そこで、ヨハネは承知した。

16説
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

17説
また、天からこう告げる声が聞こえた。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」







バプテスマ・ヨハネについて今日は見ていきましょう。
イエス・キリストに先立っていく者というその使命を 象徴するかのように、バプテスマ・ヨハネはキリスト生誕の半年前に生まれました。

彼の母エリサベツは、神の特別なお告げによって老年になってみごもりました。
キリストの母マリヤとヨハネの母エリサベツは親戚で、ヨハネとイエス・キリストは、2人共 胎内にいる時に出会い、ヨハネは胎児であるにもかかわらず、 お腹の中でキリストを喜び迎えています。(ルカ1:44)


ルカの福音書 1章 44節

ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、 私の胎内で子どもが喜んでおどりました。


バプテスマ・ヨハネ誕生の時、神に打たれ突発的に喋れなくなっていた父ザカリヤは、急に 流暢に喋りだし、次の様に語ってバプテスマ・ヨハネの使命を預言しています。


ルカの福音書 1章

76節
幼子よ。あなたもまた、
いと高き方の預言者と呼ばれよう。
主の御前に先立って行き、その道を備え、

77節
神の民に、罪の赦しによる
救いの知識を与えるためである。

80節
さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、 イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野いた。


バプテスマ・ヨハネは、イザヤが800年程前に預言した"荒野で叫ぶ者の声"であり(イザヤ40:3)、 また400年前にマラキが預言した大いなる主の日が来る前に遣わされた預言者エリヤのごとき人(マラキ4:5〜6) でした。


イザヤ 40章 3節

荒野に呼ばわる者の声がする。
「主の道を整えよ。
荒地で私たちの神のために、
大路を平らにせよ。


マラキ 4章

5節
見よ。わたしは、
主の大いなる恐ろしい日が来る前に、
預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

6節
彼は、父の心を子に向けさせ、
子の心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、
のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」


異教にのめりこんでいたイスラエルの信仰を再び神に向け、回復させた偉大な預言者エリヤのような 働きをする事・・・これがヨハネの使命だったのです。

このイザヤ・マラキの預言通りに、バプテスマ・ヨハネはイスラエルの民の前にある日突然現われ、 人々に強烈な悔い改めのメッセージを伝えました。
ヨハネの姿格好は、エリヤを彷彿とさせるものでした。

マルコ1:6に次の様に記しています。
「ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」

ヨハネは、父ザカリヤ母エリサベツに育てられた後、その特別な使命を両親から聞いて、 十代で俗世間から遠ざかり、ユダヤの荒野で神の声を聞き、おそらくは15〜20年程この砂漠でキリスト(メシヤ) の現われる時を待っていたのです。
ヨハネは砂漠の中で住み、日々祈りとみことばに養われた神の人であり、 旧約聖書最後の預言者でした。
イエス・キリストは、後に旧約聖書最大の預言者と評しておられます。
あのイザヤ、エレミヤ、ダニエル、エゼキエル、エリヤ、エリシャなど、 旧約聖書のどの預言者よりも偉大な働きをしたと言われたのです。
それは、メシヤ(キリスト)を直接指し示したからです。
彼は、キリスト御自身を「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」 と指し示したのです。

神の国の子・・・クリスチャンである私達も、あのイザヤ・ダニエル・エレミヤ・エゼキエル以上に 偉大な使命に生きているという事になります。
キリストを人々に証しする事は、キリスト者に与えられた最大の使命、尊いものなのです。
ヨハネの姿格好・生活全てがメッセージの具体的あらわれでした。
そしてヨハネの語るみことばは、すべて神様から与えられたものであり、具体的でした。


ルカの福音書 3章

10節
群衆はヨハネに尋ねた。 「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」

11節
彼は答えて言った。
「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。 食べ物を持っている者も、そうしなさい。」

12節
取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。
「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」

13節
ヨハネは彼らに言った。
「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」

14節
兵士たちも、彼に尋ねて言った。
「私たちはどうすればよいのでしょうか。」
ヨハネは言った。
「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。 自分の給料で満足しなさい。」


富んだ人は貧しい人を思いやる事、取税人は規定通りに税を取る事、 兵士は暴力、脅しではなく、給料で満足する事をヨハネは語っていたのです。

しかし、ヨハネは人々の生活面ではなく、宗教家に・・・特に特権階級に あぐらする人々に厳しかったのです。(3:7〜10)
サドカイとは、ローマと手を結び財をなしていた人、パリサイとは自分の罪を認めず他の人とは異なる宗教的なキリスト意識 を持っていた偽善者でした。

〈3:7〉
「まむしのすえたち」と一喝しています。
ヨハネは神の怒り、神の審判がすぐにも来る事を人々に伝えました。
彼は常に緊迫した状況の中で人々に罪の悔い改めを迫ったのです。
偶像礼拝を止め、貪りの罪を止め、神に会う備えをする。
今すぐにでも「神の裁きが来る事を前提に生きる事」を人々に語ったのです。(マタイ3:10)

"神のさばき"を語らない・・・現代のキリスト教にはそのような風潮があります。
神の愛、神のめぐみ、人々が喜ぶ福音、これを人々は求めます。
神の怒り、神のさばきはあまり好きではないのです。
私が一人で父なる神の御前に立って裁かれるという場面は、想像するだけでも恐ろしいです。

人々は聞きたくないのです。
しかし、ヨハネの黙示録はじめ多くの聖書箇所は、神のさばきに私達一人一人が直面 する事を語っています。
ヨハネはそれを前提に、緊張感溢れるみことばを語ったのです。

ただし、バプテスマ・ヨハネには旧約聖書時代に生きた預言者としての大きな限界 があったのです。
つまり、キリストはすぐに罪をさばく為に来る、キリストの来臨は 一度きり、ただ神のさばきの為に来ると思っていたのです。
しかし新約聖書は、キリストは来臨した後再び来られる(再臨)と、二度来る事 を伝えています。
十字架につく弱き人、僕としての初臨からさばき主、王としての再臨です。
バプテスマ・ヨハネはこの事を神の啓示の中で知らされていなかったのです。
旧約聖書の限界です。
誰もメシヤが二度来る事を予想していなかったのです。

〈マタイ3:11〉
バプテスマ・ヨハネは、罪を悔い改め神と共に生きる事を決心した人々に、その"きよめ"の儀式として 水のバプテスマを授けていました。
多くの人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、悔い改め、洗礼を受けていたとあります。(3:5〜6)
しかし、これはやがて来られるメシヤ(キリスト)を迎える為の序曲でしかなかったのです。

ヨハネは、自分とキリストとを比べて、自分はその靴を脱がせてあげる値打ちさえない・・・ つまり奴隷と主人以上に開きがあるという事を人々に告げました。
イエス・キリストという方の偉大さを強調し、 自分は荒野で叫ぶ声、やがて消えていく"声"なのだと言っています。
メシヤがことばであるとすると、 自分はそれを音声化した声にしかすぎない、弱く儚い者である事を人々に証ししたのです。
教会はどんなに大きくても小さくても、どんなに偉大な、キリストのごとき人、宣教師、牧師で あっても、キリストの前に出る事はもっての外で、キリストが褒め称えられあらわされなければ、 人も教会もむなしいものになっていくのです。

キリスト者という烙印を押されている私達は、全くキリストの名にふさわしくないのだと、 キリストを知れば知るほど実感させられます。
本当にヨハネは謙遜でした。(3:11)

〈3:11〉
「この方は・・・」
バプテスマ・ヨハネは、自分の働きはメシヤの道備えと言いました。
「聖霊と火とのバプテスマを授ける方」の事を人々に告げ、 このキリストこそその御方である事を人々に預言したのです。
新しい時代の到来を人々に予言し、その事がペンテコステに実現し、成就したのです。

バプテスマ・ヨハネに洗礼を授けられた人は、数千・数万人いた事でしょう。
ヨハネの働きは死後20〜30年経ってからも続いていて、その影響力には驚くばかりです。(使徒19:1〜7)

ヨハネの信仰とメッセージは、その後ずっと続いていきます。
いつまでもつづくものは、信仰・希望・愛です。
ヨハネはいつまでも続くものを必死で伝えたのです。


使徒の働き 19章

1節
アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。
そして幾人かの弟子に出会って、

2節
「信じたとき、聖霊を受けましたか。」
と尋ねると、彼らは、
「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」
と答えた。

3節
「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」
と言うと、
「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。

4節
そこで、パウロは、
「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、 悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
と言った。

5節
これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

6節
パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、 彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

7節
その人々は、みなで十二人ほどであった。