^ 「死の苦しみと限界の中で」
「死の苦しみと限界の中で」
 

ヨナ書 2章

1節
ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、

2節
言った。
「私が苦しみの中から主にお願いすると、
主は答えてくださいました。
私がよみの腹の中から叫ぶと、
あなたは私の声を聞いてくださいました。

3節
あなたは私を海の真中の深みに
投げ込まれました。
潮の流れが私を囲み、
あなたの波と大波がみな、
私の上を越えて行きました。

4節
私は言った。
『私はあなたの目の前から追われました。
しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を 仰ぎ見たいのです。』と。

5節
水は、私ののどを絞めつけ、
深淵は私を取り囲み、
海草は私の頭にからみつきました。

6節
私は山々の根元まで下り、
地のかんぬきが、
いつまでも私の上にありました。

しかし、私の神、主よ。
あなたは私のいのちを 穴から引き上げてくださいました。

7節
私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、
私は主を思い出しました。
私の祈りはあなたに、
あなたの聖なる宮に届きました。

8節
むなしい偶像に心を留める者は、
自分への恵みを捨てます。

9節
しかし、私は、感謝の声をあげて、
あなたにいけにえをささげ、
私の誓いを果たしましょう。
救いは主のものです。」

10節
主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。



ヨナは何故アッシリヤのニネベに行きたくなかったのか。
それは単に気分が乗らない、行く気がしない、面倒という我儘ではなく、ニネベが偶像で 満ちていたという宗教的理由でもなく、むしろ政治的理由でした。
アッシリヤはイスラエルにとって、常に悩みの種、目の上のタンコブで、 弱小国イスラエルを苦しめた大国だったからです。

いつの時代も、大きな国は小さな国を踏みつけ、その犠牲の上になりたった生活をしています。
ヨナにとって、またイスラエルにとってニネベのようなやっかいな国は滅んでしかるべき町、国でした。
特にイスラエル愛という愛国心の強い人にとって、 アッシリヤのニネベに行く事は耐え難い事であり、 その復興を望むよりも死んでしまう方がまだヨナにとってはましだったのです。
もちろん、神様はそれらの全てを知っていて、 ヨナに「ニネベにいって」宣教する事を命じられました。

神から逃れられないと知ると、ヨナは死を選んで 海中に投げ込まれました。(1:17ヘブル語原文では、ここが2:1)


ヨナ書 1章17節

主は大きな魚を備えて、 ヨナをのみこませた。
ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。


ヨナは三日三晩大きな魚に飲み込まれた事が 証しされています。
1:17はその2:1〜10の見出しとみていいでしょう。
ヨナの身に起きたこと、またヨナが大魚の中で何を思い、 何を考えたのか、その事が記されています。
全体的に2章はヨナの祈りです。(2:1〜3)
ヨナはニネベに行くくらいなら死んだ方がましだと思いました。
しかし、現実に死の苦しみに遭うと、その人の 本質が表に現われてきます。
やはり現実の苦しみに投げ込まれると、 その心の中の核心があらわれるのです。

〈2:1〜6〉
ヨナが大魚の中で溺死しそうになり、 意識がもうろうとしていた時の状況が、 詩文形式で記されています。
魚の胃袋の中、狭い空間で海水を飲みこみつつ、 やっと空気を肺に取り入れて3日間(実際は30時間ほど?) 死の苦しみに遭ったのです。

でも、ヨナはさすが預言者です。
生死の間の中で神様の事を考え、 祈り始めるのです。
ヨナにとっておそらく小さい頃から毎週安息日に連れていかれた、 もしくは年に何度も連れていかれ、大人になってからも礼拝に行った、 神の宮(聖なる宮)が、薄れていく心と思いの記憶の果てに のぼってきたのでしょう。
死を意識し、現実のものとして いよいよ捕らえると、走馬燈のように過去が一瞬にして現われ 流れてくると言われています。(2:4、7、9)
特に2:7「私の魂が私のうちに衰えはてた時、私は主を思い出しました」。
ヨナは死の苦しみの中から、神に戻っていったのです。
たとえタルシシュに逃れても、そこには偶像の神しかありません。
自分のいるべきところ、 それは神様のところであり、聖なる宮だったのです。
ヨナが死の瞬間の一歩手前で心に浮かんだのは、 神の宮にいる自分だったのです。

ヨナの心には、ニネベに宣教にいく事を命じた時に神への 怒りや憤り、ニネベへの憎しみなどがありました。
しかし神に逆らったヨナでしたが、やはりヨナの心の中には神への 信仰がありました。
ヨナの心の座にはやはり神が座っておられたのです。

ヨナの時代には、(時代を少々前後しますが) イザヤ・エリシャ他いろいろな預言者の人々や集団がいました。
神はその中で、 ヨナに目をとめてヨナを遣わそうと選ばれたのです。
ヨナしか預言者がいなかったから、ヨナを遣わそうとしたのではなく、 神はヨナを遣わしたかったのです。
神はヨナにニネベに行ってほしかったのです ヨナは晩年になって、このヨナ書を書いているのですが、 その時の苦しい状況を思い起こしつつ、 すべての自分の身に起こった事は、 主のみ手のみ業として記録しています。(1:17、2:3)
ヨナにとってこの苦しい経験は、全て主のみ業だったのです。

私達も自分の経験した、自分の遭った苦しみ、辛さを 単なる苦い思い出として後で 苦々しく思うより、 目を天に向け「私は主を思い出した」と言える、 またそれを主のみ業として自分の中で位置づけ、確信出来る者となりましょう。
(詩篇119:67、119:71)


詩篇 119篇 

67節
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
しかし今は、あなたのことばを守ります。

71節
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。


ヨナは、このヨナ書を書きながら「私は晩年になった今も まだまだだけど、あの頃は本当に信仰者として未熟だった」と思って いたことでしょう。

〈2:10〉
さて、神様は仕事を途中で決して終わらせません。
ヨナに行けと言ったら行かせるのです。
ヨナは大魚の中で砕かれ、 神に悔い改めて、再びイスラエルの地に立ちました。
魚の腹から吐き出されたヨナは、どこかの海岸に打ち上げられたのです。
ヨナの心には少なくとも神に逆らう思いはありませんでした。
とにかくニネベの重荷、ニネベへの愛はないけれども、ニネベに行って、 神様の言われた事をただ伝えようと決心したのです。

私達がイエス・キリストを伝えるのは、愛と重荷が芽生えてからが一番いいのかも しれませんが、愛と重荷がたとえなくても、 キリストを伝えると、そこで救われる事もあり、教会もできます。
私が導かれた教会もそうでした。
結果的に良かったのです。

キリスト教の伝道というのは、重荷を負ったり負わされたりして、 「リバイバル!」と言うより「お前が信じるとは思ってもみなかった」 という事が案外多いのではないかと思います。
それでも神に出会い、神に気付いて信仰に導かれるのはとても良い事ではないかと思うのです。